「尺が変わるほどの恵み」(エゼキエル書42章16節) ( 11.22/2020 )
「彼が測り竿で東側を測ると、測り竿で五百竿であった。」(16節)

エゼキエル書40章5節に「その人は手に6キュビトの測り竿を持っていた。」とあります。すなわち、竿とキュビトの尺は6倍違うということです。祭司が14節にありますように奉仕に用いる聖なる服を着替えて外に出、外側から測るとキュビトから竿に変わるほど、神を礼拝する場所が大きくなったというのです。こりゃーすごい、これが神にすくわれるということです。
(ただ、70人訳聖書では、竿をキュビトにして訳されているそうです。)

1.価値観

この神殿の周囲は一辺、測り竿で500竿、すなわち一竿が約3メートルですので500竿は1.5キロメートル(滝尾橋を渡り終えた所から大分駅くらいまでの距離があります。)パッと見通せないくらいの距離があります。しかし、500キュビトですと257メートルですので大分城址公園よりちょっと大きいくらいです。6倍の差はとてつもなく大きいのです。
この地上に生きる間、罪を犯しても仕様がないと諦めてしまうクリスチャンもおられるかもしれません。しかし、コロサイ3章3節には、「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」とあります。よくカトリックとプロテスタント云々とおっしゃる方にお会いしますが、神のことばである聖書は変わりません。キリストのみが勝利者で、キリストの勝利のみでクリスチャンの戦いは完結するのです。すなわち、罪は仕様のない問題なのではなく、罪から守ってくださるお方はキリストです。これは、6倍どころの変化ではありません。

2.住まい

お金にゆとりのある方は、是非鉄筋コンクリートの家に住んでいただきたいのですが、その理由は「庭の厚い石壁の中には、部屋があった」(10節)とあるからです。そしてベランダ付きの3階建てが良いようです(3節、6節)。なぜなら、1ペテロ1章9節に「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中なら、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」すなわち、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によって先祖伝来のむなしい生き方から贖いだされた私たちは(1ペテロ1章18節、19節)、エゼキエルに示された主に近づく祭司たちの部屋に似た部屋で生活しながら信仰と希望を神に置いて生きていけたらすばらしいと思うからです。ただ、固定資産税は高いですから事前に調べましょう。

3.神は聖であるということ

「聖なるものと俗なるものとを分けていた。」(エゼキエル書42章20節)、私共は神の聖について、真剣にアーメン(同意します)と言う必要があります。すなわち、妻をイシャー(ご自分の名前の女性形)で呼ぶほどに愛し、悪魔の策略に対抗して神のすべての武具を身に着け、主の大能の力によって強められて(エペソ6章10節、11節)、祈りの場のある聖なる天の父が支配される社会に(マタイ18章19節)出ていきましょう。

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