『きょう、救いがこの家に』(ルカ19章1~10節) ( 11.29/2020 )
「きょう、救いがこの家に来ました。」(9節)

序. 今日はこども祝福式。こどものようにイエスさまを心に迎えた人を紹介したい。

1. 極悪人ザアカイ

男の子にはなぜかバイキンマンが人気。悪役に惹かれるところがあるのかも。今日はバイキンマンがアンパンマンに変わったような人を紹介したい。名前はザアカイ。聖書のザカリヤと同じ「清く正しい」の意。ところが彼は極悪人。当時悪名高い「取税人」という仕事のリーダー。誰もその名を知らない人はない。弱い人を脅して税金を決められた以上にだまし、ゆすり取る。相手が泣きわめいても知らん顔。金の亡者。彼は自分の背が低いことを気にしていた。自身がない分、人をいじめた。彼は裕福であったが幸福ではなかった。友はいなかった。平安はなかった。

2.「急いで降りて来なさい」

主イエスは彼の町エリコを通って十字架の受難に向かわれた。ザアカイは主イエスがエルサレムに入る前に出会った最後の人。ザアカイはイエスを見たかった。取税人からイエスの弟子になったマタイがいたから?しかし、人々はザアカイを妨げた。彼はイエスが通られる道を先回りした。そこに一本の低い木があった。彼はそこに上り、大きい葉の陰からイエスが通り過ぎるのを待った。
ところが、イエスは葉に隠れて見えないはずのザアカイの場所で立ち止まり、上を見上げ、「ザアカイよ」と声をかけられた。「この方は神だ!わたしのことをすべて知っている方だ!」ザアカイは恐れた。自分の過去の罪の大きさに震えた。「もうダメだ」そう思った瞬間、イエスは続いて、「急いで降りて来なさい。今日あなたの家に泊まるから」と言われた。お咎めなし!?

3. 「失われた人を捜して救うために来た」

周囲の人はがっかりした。気高い神のようなイエスが汚れきった極悪人の友となるなんて!あの人は清くない!とイエスのことを評価した。彼らの言うことは正しい。ただ、彼らの間違いは自分も神に来ていただかないといけない罪人だと知らないこと。ザアカイは人々のささやきを聞いて、もっともだと思った。それでも主イエスが彼を咎めず、古い友のように家に来て泊まってくださった。
出会いは人を変えてしまう。神との出会い。彼はまったく変えられた。家に来られたイエスは彼の心に入り、彼の心を変えてしまった。彼は過去の罪を悔い、神への償いに、これから人に詫び、人を愛する決意を宣言した。
彼は「失われた」、神の元から迷子になっていた者だ、とイエスは言う。

神は罪を責めることではなく、人が神との正しい関係に返ることを求めている。

おわりに. 「きょう、救いがこの家に」

「ザアカイが救われた」とは書いてない。「アブラハム」とは、彼を通して、神の救いと祝福が全世界に及ぶと約束された最初の人。神のザアカイに対する祝福の御計画が来た、ということ。その通り、ザアカイの悔い改めによって、神の祝福の福音は彼の家族から広がっていったことだろう。悪名高き名は、今度はその名を聞くと嬉しくなるような喜ばしい名となったことだろう。

神はあなたを祝福し、あなたを祝福を持ち運ぶ器にしたいと願われる。「急いで」降りたザアカイのようにきょう、主イエスを心のお家にお迎えしましょう。

(説教者;田代 美雪牧師)

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