「知らないけど知っていること」(マタイ24章36節) ( 12.27/2020 )
「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(36節)

主イエス様がここで語ってくださっていることは、主人は父なる神だということです(36節、50節、51節)。そして、ここのメッセージを大まかにとらえますと、知らないけど知っていること、ということになると思います。「天地は消え去ります。しかし、わたし(主イエス様)の言葉は決して消え去ることはありません。」(マタイ24章35節)言葉は消え去らない、(確かに)と思うのです。でも消え去るものがあるのです。そして、その日が来るのです。けれども、47節によりますと、全財産を任される人もいることがわかるのです。では、この終わりの日まで、世の善と悪はこのままなのでしょうか。答えは、マタイの福音書の冒頭に「その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1章21節)にあります。主イエス様がこの世界に「こんにちは。」と来てくださったのです。私共がこのお方を迎え続けるなら、「さようなら。」できるものがあると思うのです。主イエス様は生きておられますから、彼に(こんにちは)してみませんか。

そこで、私共にとっての、知らないけど知っていることとは何かを考えてみませんか。
あるドラマで、一番印象に残った場面は、生徒が自分の心の中に沸き起こる汚い感情をプールの壁のようなところに落書きするのですが、教師はその落書きを白色のペンキで消すのです。

聖書の冒頭に人間は神に罪を問いただされたとき、それを隣人のせいにします(創世記3章12節、13節)。彼らが日常知っていることとは隣人のせいにすることです。しかし、主イエス様はマタイ24章で知りうることをせつせつと語ってくださるのです。そして、それだけでなく、私共の罪を背負って(マタイ27章23節)十字架についてくださり、私共がこれ以上、隣人を裁かなくてもよいようにしてくださっているのです。もし、あなたが今日、主イエス様を十字架につけたのは自分だと信じるなら、もう、これ以上、隣人を十字架に追いやらなくてもよいのです。なぜなら、主イエス様の十字架に自分も共に死んだのだと信じてよいと聖書は証言しているからです。すなわち、

・「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた…。」(ローマ6章6節、新約306頁)
・「私はキリストとともに十字架につけられました。」(ガラテヤ2章19節、新約377頁)
・「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(ガラテヤ5章24節、新約382頁)
・「この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」(ガラテヤ6章14節、新約383頁)

この一年、いろいろなことがあったと思いますが、隣人に向けた目を自分自身に向け、更に、十字架上に死んでくださった救い主イエス様に向けて、自分の自我の死をお受け入れになりませんか。神様からの上記の4つのみことばは過去形です。ゆえに、信じ受け取ってみませんか。自我は神の御前には尊いものではありません。

そして、神の御旨に生きる新しい一年が始まるのを待ちましょう。神は新しい価値観、すなわち、同居ではありません。肉ではなくキリストの御霊に生きていただくことを喜ばれます(ガラテヤ2章20節、ガラテヤ3章3節、5章11節〜16節、ピリピ3章3節、コロサイ2章18節〜23節、3章3節参照)。

(参考図書 アンドリュー・マーレー著 「キリストの御霊」 いのちのことば社)

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