「苦難と誘惑」(1テサロニケ3章12節) ( 1.11/2021 )
「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。」(12節)

テサロニケ第一の手紙は励ましの手紙です。何で励まされる必要があったのでしょうか。恐らく、ご利益宗教とは違ってすでに召された聖徒たちがたくさんおられたのです。ユダヤ人たちは異邦人が信仰によって神の救いに与ることに納得できず迫害したようですし、それ以上に、彼らを襲ったのは苦難と苦悩でした。「誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためです。」(5節)すなわち苦難から逃げるように誘惑するもののあることを知っていたのです。そこで、パウロ、シルワノ、テモテは、自ら働くという彼らの生活スタイルを証しつつ誘惑に負けないように励ますのです。誘惑の実態を考える前に、どうしても私共に必要なものは、

1.神への祈りと感謝

「夜昼、熱心に祈っています。」(10節)これが、敵が一番恐れているものであり、私たちにとって必要なものです。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11章13節)

2.神の御業(12節)

「主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。そして、あなたがたの心を強めて」(12節。13節)スピード違反をしている自動車には「止まりなさい。」と命令を聞いても止まる自由はありません。運転しているドライバーを運転席から降ろさないと自動車を正しく用いることはできないのです。マルコ5章8節に登場しているゲラサ人レギオンも主イエス様によってしか悪霊から自由になれませんでした。私共も、ただ祈り、神の御業を待ちましょう。

3.苦難に代えて与えられた愛と神の御前に立つきよさ

いったい何が苦難なのか、その答えは愛です。そして神の御前にあっては聖とされて立つことです(12節、13節)。愛や聖が苦難なのなら選ばなければ良いではないか。これが誘惑の実態です。

昔、『神は愛である』と大きな字が軽貨物のバンに書かれているのを見ました。数年後社会人となってその車の持ち主のご子息にお会いしました。「あなたの尊敬している人は誰ですか。」と質問しますと、その息子さんは「父です。」と答えてくださいました。私は機会が巡るたび、しょうこりもなく3回も同じ質問をしました。けれども、「父です。」という回答でした(すなわち、お父様と同じ信仰でした)。

一方、右翼の方々は大きな宣伝カーに自分の心を文字に記して自分を宣伝しています。知識や名誉や財産など、形は違ってもこれが日本人一般が選び取っているものではないでしょうか。すなわち、私共が死ぬまで戦い続けなければならないのは、自分の心です。自分を愛するか、隣人を愛するかの選択です。この誘惑に勝つには祈りと神の御業がどうしても必要なのです。けれども、不可能ではありません。なぜなら「主によって 人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は転んでも倒れ伏すことはない。主が その人の腕を支えておられるからだ。」(詩篇37篇23節、24節)この生涯を無事歩み終えるまで、祈りの手をあげ続けましょう。「夜昼、熱心に祈っています。」(10節)主が、すべての人に対する愛をあふれさせてくださるように、そして生涯苦難と誘惑に負けないようにと。

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