『神の喜ぶ礼拝』(レビ1章1〜9節) ( 1.17/2021 ) |
「これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」(9節) 序. 今朝は非常に深遠な箇所。礼拝の原型。ささげ物はキリストのひな型。新しい年、クリスチャンの始まりであり、信仰の土台である礼拝が確立されたい。 1.礼拝の始まり 礼拝の主体は誰か?「主」(:1)。「主は…待っておられ」る(イザヤ30:18)。その始まりは「呼び」(:2)出すことから。教会(エクレーシア〔ギ〕)とは召し出された者の集まり。自分で来たのではない。「わたしがあなたを選び…。」(ヨハネ15:16)と主が選んでくださった。「呼ぶ」と人は出てくる。クリスチャンとは罪の滅びの世から御子の血によって救い(贖い)、取り出された人(使徒20:28)。 「呼ぶ」ことには目的がある。モーセは出エジプト3:4で一介の羊飼いであった所から出エジプトのリーダーとして呼ばれた。またここでも同じ重さで呼ばれている。 イスラエルの民も奴隷であったエジプトから呼び出された。それは神を礼拝する民として聖別されるため。現在の私たちに対しても神は聖別しようと呼んでおられる。 礼拝の理由とは、 1)人がそのために造られたから。礼拝はすべての人の本分。 2)そのために救われたから。礼拝、神との交わりの回復のための贖い。 3)神の命令だから。「神を愛せよ」というのが神の命令。神が求める食物は神への愛、神への近づき。 2.神に近づく唯一の道 神は聖なる方。汚れた人間が神に近づくことは死。その罪汚れを覆うために贖いの血が必要。それが命ある犠牲の血。それが御子の命である血。「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)。十字架による贖いだけが人が神に近づかせる(カーラブ〔ヘ〕)唯一の道(ヘブル10:1920)。神は私たちに贖いを要求されない。私たちのなすただ一つのことは、唯一の完全な救いの犠牲である御子イエスに「手を置く」(:4)こと。「この贖いは私の代わり」、という信仰告白。その時、咎めは御子の上に、御子の義、無罪は私の上に交換される。その後、神は人を受け入れ、人も神に近づくことができる。週ごとの礼拝で講壇から語られる神の御言葉の剣は、私の心の中の隅々まで探る。犠牲が切り分けられるように。そして、血潮よって罪洗われ、聖霊の火によって心を新しくしていただく。神との交わりの回復、神が私の心に住んでくださるなら何に対しても恐れはない。神がいますそこが天国。 3.礼拝のクライマックス 全焼のいけにえが最も美しいささげ物と言われる所以は、「全部を…煙にする」ことにある。それは「かおりのささげ物」と言われる神への最上のささげ物。 残すところがない。私たちの心から欲や、自我や、誇りという不純な物がきよめられ、軽くされる時、上に上る神を喜ばせるかおりとなる。しかし、何より高きかおりは、御子イエスがご自身を喜んでささげ、私たちの罪の贖いとなる父の意思に全く従ったその従順。私たちに表された御子イエスの愛と父への献身。 おわりに. キリストを迎えるその日まで 礼拝の最後は再臨を待ち望む祝祷。再臨の都の中心も犠牲の小羊である主イエス(黙示録22:34)。大賛美の日。その日まで真心からの礼拝をささげたい。 (説教者;田代美雪牧師) |
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