「連れて来られるはず」(1テサロニケ4章14節) ( 2.8/2021 )
「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」(14節)

皆さん、鳥を見て、飛び立ったからといって驚きますか。大分県には北海道まで行って帰ってきた鳩が二羽いるそうです。この14節の「はず」は、見込みを意味しているのではなく、確信を意味した言葉です。
なぜなら、彼らは神が主イエス様に十字架の生涯を許されたことを信じ、自分たちも神から受ける十字架の生涯を受け取っていたからです。ですから、「はず」と言えたのです。

世はいくらでも私共の人生を喜びで満たす術を持っています。しかし、私共はその、世の楽しみ(と滅び)から救い出されたのです。簡単に救い出されたのではありません。自分の力で悟って脱出したのでもありません。ただ主イエス様を信じた私共を神があわれんでくださって世の力から解き放ってくださったのです。

イエス様と同様に十字架の生涯を送る人とはどのような人なのでしょうか。恐らく、教会においては毎週忠実に会堂の掃除をしてくださる方々のことです。掃除機を動かしている30分間、(いったい何の意味があるのだろうか。埃は見えないのだが。)と思いつつも、「ゴーッ」という煩わしい音と、障害物に悩まされながら掃除機を操って掃除を終えるのです。そして、最後にゴミ箱の上でフィルターを空ける瞬間、労苦が報われるのです。
ペテロは主イエス様の十字架を目撃して、逃げ出しました。ここからキリスト教は始まっているのです。しかし、イエス・キリストの復活を見、神の御力の前に自分への誇りを捨て、ただ神の御力のみに信仰を抱いたとき、すなわち、
「いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」(使徒の働き11章18節)
いのちに至る悔い改め、すなわち、神の御力に対する不信仰と不遜を悔い改めて、神が負わされる十字架を担い始めたとき、聖霊は彼を用い始めたのです。
そして、主イエス様と同じ道を通りながら、復活を神がご計画くださること、すなわち神による「はず」神の御意志を確信しているのです。

もし、今まで十字架を避けてきたというのでしたら、今日を悔い改めの日にしませんか。自分への信仰を捨て、神だけを信じてみませんか。そして、神の負わされる十字架を担ってみませんか。もし、信仰継承がなされないとしたら、神の御業を自分の力であるかのように間違って証ししていることが原因ではないでしょうか。もしくは、本物でないか、そのどちらかです。「あッ」神の時が来ていないだけかもしれません。けれども、自分では原因がわかるはずです。

「主は遠くから私に現れた。
『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。』」(エレミヤ31章3節)
つぶやかず神に立ち返りましょう。きっと理解させていただける日は来ます。このきっとも確信の意味の「きっと」です。

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