「御霊を消してはいけません」(1テサロニケ5章19節) ( 2.15/2021 ) |
「御霊を消してはいけません。」(19節) 他の人と比べること。このことを私共は日常行いがちです。しかし、聖書を通して神が教えてくださっているのは、御霊があるかどうかが問題であって、信仰生活は霊の世界の問題なので自分の信仰が現時点で小さく思えても重荷に感じなくて良いということです。 まず、御霊とは何なのでしょうか。 ペンテコステの日に「炎のような舌が分かれて現れ」(使徒の働き2章3節)とあり、イエス様の神の国の説教の中にからしだねの話があるのですが(マルコ4章31節)、御霊というのは炎のようであり、また最初は小さいのだということが分かります。 この教会の歩みを見ましても2004年にこの滝尾での伝道が始まったのですが、3年前の2017年10月には80坪の土地を購入いたしました。更に、1980年代にこの地域で宣教されていた宣教師の先生に導かれていた青年も昨年からこの教会に加わってくださってこの教会の宣教の大きな力になってくださっています。また、神様がリバイバルされた姉妹も家は遠くても毎週この神の宮に集い、共に交わり、賜物を用いて神を証し、神について学びながら神に仕えておられます。この教会は炎のように徐々に大きくなってきているのです。すなわち、神の御霊の働きは借家探しから始まって魂が救われて土地を購入して、これからもどんどん大きくなっていくのです。 けれども、今日気になる部分は、「消してはいけない」と勧められている点です。すなわち、御霊を消す力も存在するということを忘れてはいけないのです。(神が救ったものに手を出すなんて、そんなこと考えつくものがいるのか)と思われるかもしれませんが、そんな存在があり、神の約束を疑わせ虜にしてしまう、手ごわい存在なのです。 しかし、平和の神ご自身が私共の生涯の保証人です。神があなたを全くきよめてくださるのです(1テサロニケ5章23節)。ですから、安心して教会生活をいたしましょう。「もし、できればというのか。信じるものにはどんなことでもできる。」(マルコ9章23節)神の御業を制限しているのは神ではなく、私共の不信仰です。しかし、神はそんな不信仰を全くきよめてくださるのです。 すなわち、主イエス様は「疑わないで信じるならそのとおりになる。」(マルコ11章23節)とおっしゃっています。今、勝利できない罪があっても大丈夫です。ただ主イエス様を信じて、主イエス様は勝利させてくださると信じているならば、主イエス様が救ってくださるのです。それも、簡単に。どうしてそう言えるのかと言いますと、山を海の中に入れることもできると約束してくださっているからです。 わたくしも、結婚した当初は、引っ越し当日に教会員の姉妹と姿を消した妻に怒ってしまい、妻の荷物を実家に送り返すために一か所にまとめておいた、そんな失態をしたのが約14年前、しかし昨日は伝道用のチラシの名前と妻の名前の間にハートマークを描くほどに、神の御霊が私を造り変えてくださいました。また、それだけではなく、私の心から除いてくださった汚れは数え切れません。 今、信仰が小さくても心配しなくて良いのです。平和の神ご自身が私共をきよめてくださるのです(1テサロニケ5章23節)。来臨の日に責められるとことのないところまで。栄光を現すのはあなたではなく、神の御霊です。 そして、無数に選択肢があるのです。しかし、ただ一つ、まったくきよめてくださる御霊だけを選ばせてくださるのは、イエス様です。私共は弱く、主イエス様は強いのです。そしてイエス様は真実で罪人を救うお方です。「今日の診療はここまで。」と言って追い返されることはありません。(イエス様に会える時間は巡って来ます)。御霊はイエス様の御手によって、あなたの心の中の一番良いところに据えられるのです(1テサロニケ5章24節、マタイ5章15節)。神のみわざは始まります。手に負えない問題をプロに、プロどころでなく、神にお願いしてみませんか。御霊を崇めましょう。 |
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