「わたしの聖所」(エゼキエル書44章15節) ( 3.1/2021 )
「しかし、イスラエルの子らが迷ってわたしから離れたときも、わたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしの前に立ち、わたしに脂肪と血を献げることができるー神である主のことばー。」(15節)

祭司エブヤタル(ダビデ王をかくまった祭司の息子、2サムエル15章24節、1歴代15章11節12節)は列王記上1章から3章に登場するアドニヤ(ダビデ王の第4子)を支持したことでソロモン王に追放され(1列王1章7節、2章26節)重要な奉仕はツァドク系の祭司が務めていました。

15節にわざわざツァドクの子孫と言われているということは、歴史的にはエブヤタルが行ったことが何かしら語られていると思うのですが、この44章で主に責められているレビ人たちは偶像の前で民に仕え、そのことでイスラエルの家を不義に引き込む者となりました(エゼキエル44章12節)。

偶像とは何のことを意味しているのでしょうか。お金でしょうか。王子でしょうか。名誉でしょうか。汚れた情欲でしょうか。それとも、土地や産業でしょうか。生きることへの執着でしょうか。身だしなみでしょうか。人生すなわち時間の使い方でしょうか。

そのすべてでしょう。というのが答えかもしれませんが、聖と俗を区別する、これがこのエゼキエル書のテーマの一つだと思います。19節に「その服によって民を聖なる者とすることのないため」とあります。

神の聖は間違って用いるとケガをするというような厳かさがあるということだと思います。「わたしの聖所」の「わたし」と繰り返される聖なる神の聖を受け止める者は、イスラエルの子らが迷って離れたときにも、わたしの聖所の任務を果たした者のようにしなさいというのです。アドニヤのような王子の誘いにも乗らず、サタンの誘惑にも乗らず神に仕えるものとはどんな人なのでしょうか。

大リーグの投手の球をキャッチャーのマスクと防具類だけ身に着けさせてやるから、50球でいいから受けてきなさいと言われても、野球をしたことのない人には無理でしょう。神の聖を受け止める、そんなこと誰にできるのでしょうか。神の御子イエス様が十字架の上で血潮を流して受け止められた。そのことを信じることしか私共には認められていないのです。けれども、御子イエス様の血は私共をきよめるのです(1ヨハネ1章7節)。

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