「感嘆の的」(2テサロニケ1章10節) ( 3.7/2021 ) |
「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。」(10節) キリスト教会の中でも、また社会の中でも苦しめられる側の人々、病気や貧しい人々はあまり目立たないことはないでしょうか。しかし、聖書の中のこの部分には、主イエス様が再臨されるとき、主イエス様を感嘆の的とする人々が、この方々なのです。彼らが(おそらく)最前列で主イエス様を賛美するのだと思います。それは、4節に「苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保って」きたから、そして10節には「ご自分の聖徒たちの間であがめられ」とあるからです。どんなお方が主イエス様か知っているから一番近くに行けると思うのです。そして、何よりも、迫害と患難の中でそれに耐え従順を保つ人こそ神の国の存在と神の正しいさばきのあることの証拠なのです(2テサロニケ1章5節)。神が愛なら貧困も病もなくせば良いではないかとよく聞かされます。しかし、聖書を読みますと、事はそんなに簡単な問題ではないのです。神に対する不従順と欲望の中に虜にしている存在があるからです(ヨハネ8章44節)。しかし、神は御子を遣わし(マタイ21章37節)、それぞれ、どのような反応をするか見ておらます。主イエス様を知っている人とは苦しみの中にある方々なのです。 聖書に見る主イエス様に従った人々 1.真理を求めていた人々 主イエス様の弟子たちは、自分の仕事を置いて、主イエス様に従いました。なぜでしょうか。彼らは恐らく待っていたからです。それで主イエス様が来られた時に彼を愛したのです(ヨハネ8章42節)。 2.主イエス様によって自由にされた人々 ゲラサ人のように、悪霊に支配されていた人が主イエス様によって自由にされるのです。 3.苦難の中に生きる人々 2テサロニケ1章に証されている人々は、主イエス様に従うゆえに苦難を受け止めました。彼らには反対する者たちが傍らにいたのです。けれども、それにもかかわらず彼らの生活に証されていたのは隣人への愛でした。「一人ひとりの互いに対する愛が増し加わっている」(2テサロニケ1章3節)教会にあるような愛、すなわち、神を受け入れた明るさがあったのです。「あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。」(1テサロニケ1章4節) これら3種類のタイプに分類してみますと、苦難の中にある人々の生活が一番不思議です。すなわち、「あなたがたは、なぜわたしの話がわからないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。」(ヨハネ8章43節)。という人々と違って、テサロニケの教会の方々は聞き従い、安息の日を待ち望んでいたからです。 ではテサロニケ教会の人々が信じた「父なる神と主イエス・キリストから」(2テサロニケ1章2節)のメッセージとは何だったのでしょうか。 1.神の正しいさばきがあること(2テサロニケ1章5節) 2.神は神を知らない人々と主イエス様の福音に従わない人々に罰を与えられること。(8節)その罰とは、永遠の滅びであること(9節) 3.それは主イエスの再臨の時に起こること(7節) すなわち、この世の苦難は安息に変えられます。しかし、神を知らないこと、そして主イエス様の福音に従わないことは永遠の滅びに至ります。(本当なのか)と思われるかたがおられるでしょうか。しかしテサロニケ教会の方々の苦しみが神の国にふさわしいものと認める正しいさばきのあることの証拠なのです(5節)。そして、「わたしは父のもとで見たことを話しています。」(ヨハネ8章38節)と主イエス様が証言されているからです。このことをもって私共の不従順を詰んでいただきましょう。迫害と患難を恐れずに主イエス様に従いましょう。すなわち互いに愛しましょう。具体的には、どうすれば、愛が生まれるのでしょうか。ルカの福音書15章に放蕩に身を持ち崩した息子が出てきます。私共の人生もレース鳩の人生のようなものです。何年間迷っていたとしても、レースとしては順位がつかないくらいの成績でも、ただヘロヘロになってでも神のもとに帰りさえするなら、神は絶大な愛をもって迎えてくださるのです。その為にいつも神に感謝しましょう(2テサロニケ1章3節、ローマ1章21節)大分市の全市民の皆様、教会へ帰りましょう。神は迎えてくれます。罪を悔い改め感嘆の的となられる主イエス様に祈り、イエス様の苦しみと神の正しさを教えていただきましょう。 |
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