「主イエス・キリストの栄光」(2テサロニケ2章14節) ( 3.14/2021 )
「そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。」(14節、新改訳2017)

この2章からがこの手紙の本題です。この2章には主の日が既に来たかのように言われるのを聞いても心を騒がせてはいけないと勧められています。不法の者、すなわち滅びの子が現れるまで主の日は来ないからです。まず不法の者が現れること、けれども定められた時までは引き止める者があり、秘密とされていること。そして、引き止める者が取り除かれるときには不法の者が現れるのですが、主イエス様が御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされるというのです。
9節以降はなぜ不法の者が送られるのかが語られています。まず、その時の様子について、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、またあらゆる悪の欺きをもって滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を、愛をもって受け入れなかったからです(10節)。神は真理を信じないで不義を喜んでいたすべての者をさばかれるのです(12節)。10節に、真理を、愛をもって受け入れない、12節にも真理を信じない、このゆえに神は惑わす力を送られるのです(11節)。

しかしテサロニケの教会には御霊による聖別と真理に対する信仰がありました(13節)。それは、神が彼らを初穂として救いに選ばれたからです。そして、大分の教会の皆様も初穂として選ばれて今日の礼拝に導かれているのです。仕事のゆえにこの時間に共に礼拝を守れないと事前にご連絡くださっている兄姉もまた遅れてこのメッセージを読まれる方々も神は選んでくださっているのです。

真理とは何か、聖別とは何か、信仰とは何か(13節)難しくてわからないと言われる方もあると思います。まず、テサロニケの教会は異邦人の救いを受け入れたためにユダヤ人でありながらユダヤ人に迫害されていた人々によって構成された教会でした。そして愛のわざにおいてもほめられている愛に満ちた教会で、他の地域にまで愛の働きを進めているそんな教会でした。しかし、彼らに求められていたのは聖なる者となることでした。召してくださった神に倣って聖なる者となれと命じられていたのです(1テサロニケ4章3節)。そしてこの点について、1テサロニケ4章2節には、すでに知っている(だろう)と問われているのです。そして、このように厳しく警告するのは、神が自分の体を汚すすべてのことについて罰を与えるお方であるから、そして、聖なる者とすることが神の召しの目的であり、これを拒む者は、人を拒むのではなく聖霊を与えてくださる神を拒むのだと警告されています(1テサロニケ4章8節)。

真理については最後にして、聖別とは何か、聖霊と関係していることは前述のみことばでわかります。聖霊とは御霊とも呼ばれますが、キリストの御霊です(ヨハネの福音書14章参照)。多分わかっているようで一番難しいのは信仰です。信仰とは何か。本来はローマ人への手紙を全部読ませていただけましたらそこにある通りなのですが、時間がかかりますので、まず、信仰とは神に対する信仰です。次に、隣人に対するものではありません。たとえば、隣人が善人になればわたくしは幸せになれる、という隣人に対する神の力の行使を言っているのが信仰なのではありません。神の御前にある自分自身の姿に関することを信仰と言います。そして、信仰を言い出したユダヤ人がこの信仰において躓いたと聖書は証言しています。なぜ躓いたのか、それは行いによって得られると思ったからです。彼らは躓きの石に躓いたのです。しかし神はイエス・キリストを信じる者を義としてくださるのです。
行いを信じる者は、自分は悔い改めたからきよくなった。もう罪は犯さない。と思い込むのですが失敗を繰り返すのです。しかし、イエス・キリストを信じた信仰者は、彼の御霊を信じ素直に従うのです。それが神の聖を行わせるのです。すなわち、真理とは主イエス様のことです。ゆえに、聖に関するすべてのことはわたくしたちの主イエス・キリストの栄光です。行い、行いって足元ばかり見ている人がつまずくのです。主イエス様が十字架について私の罪の代価を支払って死んで、死からよみがえってくださったと信じる人だけが御霊に従い得るのです。自分が行いという代価を払っていないからお従い出来るのです(ローマ9章32節、10章6節〜11節、12章11節参照)。行いがあるから聖なのではなく、キリストへの信仰を神は義と認めてくださるので、ただキリストの御霊にお従いするのです。
主イエス様だけが深みに下ってくださったのです。ですからすべては、主イエス様の栄光なのです。

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