「渡された」(マタイ27章50節) ( 3.28/2021 ) |
「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」(マタイ27章50節、新改訳2017) 本日は、受難週の礼拝です。主イエス様が十字架にかかられたことを覚える週です。主イエス様は聖書によりますと「世の罪を取り除く神の子羊」と証されています。すなわち、私共は神を知らず神のない生活をしているのですが、神を信じる人生に入れてくださるお方が主イエス様です。 主イエス様は、十字架にかけられよみがえったお方ですが、天に挙げられ神の右に座しておられます。そしてご自身の御霊を私共に送ってくださり共に歩んでくださるお方です。そして将来もう一度、世を救うためではなく裁くために来られます。 神の愛を信じて歩むのが幸いな人生の秘訣ですが、主イエス様の人生に証されているのはののしりであり(マタイ27章39節)、あざけり(マタイ27章41節)でした。すなわち、否まれた人生でした。 しかし、失望する必要はないことをここから教えられることができます。主イエス様はご自分の霊を渡されたと50節にあるからです。慎重に慎重に歩む人とは反対に、勇気をもって歩みだす人ほど、苦しんだり悲しんだりすることが起こると思います。神の愛を疑ってしまうこともあるかもしれません。けれども、主イエス様は自分の願望をゆだねるべきお方がいてくださることを教えてくださっています。すなわち、「霊をわたされた」(マタイ27章50節)神に、大声で。 私たちは死んではいけません。しかし、神に逆らう人生には死ななければなりません(詩篇81篇8節、9節)。すなわち、悔い改める者のために神は丁寧に偶像を取り除いてくださるでしょう。偶像は絶望を与えますが、神は希望を与えてくださいます。 アニメのトムとジェリー、何が面白いのかと言いますと、あり得ないことがそこで起こっているからです。「猫にネズミがかみついた。あべこべだ猫たたき」(そんなことあるか!)ということで食い入るように見てしまうのです。けれども、皆様ご存知の通り、猫はネズミで遊ぶのです。そしてネズミのような立場にあることを受け入れられないのが私共の姿です。 そして、歌の最後の場面は傷だらけで包帯を巻いたトムと、同様に傷だらけで包帯を巻いたジェリーがおとなしく座っている絵で終わります。 私共は十字架につけられた神の御子を見て、神の愛を信じるべきではないでしょうか。 既に傷を負ってくださっている神の御子の御傷の中に、私共の願望をすべて、悲しみも、喜びも、おゆだねしてみませんか。そして神を認め、信じ、崇め、神にお従いしてみませんか。 |
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