「だれを捜しているのですか」(ヨハネ20章15節) ( 4.5/2021 ) |
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」(15節) 罪というのは人生を変えてしまうほど重いものです。 主イエス様を知ることが無くても、自分の心を打ち明けて共に歩んでくれる方が見つかった場合生きる力を得ることもあると思います。しかし、この、罪人であることを認めること、すなわち、罪を告白することが、どうしても神に立ち帰るための壁のように存在し、多くの人々の心を壊してきたのです。あなたの悔い改めを聞いてくださるお方は、 1.将来の希望 さて、本日はイースターです。すなわち主イエス様の復活をお祝いする日です。そして将来「死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(1コリント15章55節、22節、43節〜44節、54節、58節参照)と言われる罪の解決の日、終わりの日が来るのです。すなわち、未来の勝利を現在生きるのです。 2.現在の希望 罪を犯した人も、罪を犯した人をゆるせない人も、すべての人のためにあるのが今日この日です。主イエス様が全人類の罪の為に身代わりとなって死なれました(ローマ5章6節)。しかし、この身代わりとなって死なれた主イエス様は死に勝利しよみがえってくださったのです。 罪とは何でしょうか。神への反逆のことを罪と言います。主イエス様が失われた者を救うために来てくださったことを聞いていても、いつまでも背を向け続ける私共にとって、どうしても必要なのが、今、生きておられる主イエス様です。主イエス様に罪の解決を見るのです。 3.従うのを待っていてくださる 自分を信じている人は、結局聖書の言葉に従いません。けれども、主イエス様を信じて神に立ち返った人は聖書の言葉に従い、救われた意味を知るのです。 主イエス様に従う人生に踏み出してみませんか。マリヤは主イエス様を捜しました。そして、出会いました。「捜せ、そうすれば見いだすであろう。」(マタイ7章7節)彼女は自分から主イエス様を捜しに行ったのです。聖書は全人類に与えられています。狭い門から入ったらどうなるのか(マタイ7章13節)、教会に行って信者さんたちに聞いてみませんか。 だれを捜して生活しておられるでしょうか。自分を探す人生は、もうやめませんか。自分様でも王様でもなく、主イエス様を捜してみませんか。 |
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