「夜昼どこにいますか」(2テサロニケ3章8節) ( 4.12/2021 )
「人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。」(8節)

1.すべての人に信仰があるわけではない(2節)

信仰生活に厳かさを感じさせるのが、「すべての人に信仰があるわけではない」(2節)です。すなわち、目に見える人々は信じているけれども、よみがえられた主イエス様を信じず、その御手の傷も信じず、罪の赦しも知らず、神に背き続け、主イエス様の御霊を信じす、従わず、隣人との関係に支えられてそれを信仰と思っている人々もいらっしゃるということです。
けれども、主には、パウロを召しだし、弟子たちを召しだしたお方ですから、テサロニケの教会員の方々同様に、私共の心を導くことができるのです(5節)。すなわち、私共の向かうところは主が生きておられるという点であり、主は罪から解き放って御霊にお従いできるように導いてくださるのです。主にはそれができるのです。

2.怠惰なものを避け、自ら模範を示すこと

パウロは手に職をもったかたでした。当時、パウロのようなパリサイ人は手に職をもった方が多かったのでしょう。現在の牧師も手に職を持てたらパウロのように模範を示せると思います。すなわち、8節には「夜昼、労し苦しみながら働きました」とありますので、彼らは聖書研究していたのではなく、働いていたのです。10節には、働きたくない者は食べるなとあります。働く中で、3節にあるように主に守られて伝道していたのです。

3.真の伝道者

パウロのいう真の伝道者とは、「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」(12節)ということですので、「来年から献身する方は、お仕事を続けながら献身してください。あなたの教師は、みことば(1節)すなわち、御霊であり、学びの場は、生活の中です。」と、おふれが出されないといけないことになります。
ただ、現状の機構のままでも、牧師が積極的に社会の中で仕事をし、経済的な教会の負担を減らすことも考えられると思います。
問題は人に認められる部分と、神から認められる部分があり、本来は後者が大切なのですが、公の組織がある場合に、どうしても前者(認可組織)が必要になり、けれども、その実際は「夜昼、労し苦しみながら働いている」クリスチャンによって神の御業は担われ前進しているということです。

牧師が主への信仰を、身をもって示しましょう。必要なのは、負担をかけないことと、人でも知恵でもなく夜昼も主であられるお方と主の守り(3節)です。

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