「偽りのない信仰」(1テモテ1章5節) ( 5.2/2021 ) |
「この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。」(5節) パウロというキリスト教会の世界で抜きんでて有名な伝道者がいました。彼は弟子であるテモテに健全な良心を保って立派に戦いを戦い抜くように勧めています。それは、偽りがエペソの教会にあったからです。 9節に「律法は正しい人のためにあるのではなく」というくだりがあります。すなわち、エペソの教会に欠けていたものとは、恐らく、悔い改めでしょう。パウロは続く13節に自分自身のことを証ししています。彼は以前には「神をぼうとくする者、迫害する者、暴力をふるう者」であったと。 それに比して、エペソの教会に人々は罪のない、問題のない、善良に見える人々だったのだと思います。すなわち、偽りの信仰で飾られた教会に対して、テモテよ、律法を正しく用いるように語り続けよと言っているのです。 1.委ねられた信仰の務め(4節) 神に委ねられた信仰の務めを実現させるために必要なのは、きよい心と健全な教えと偽りのない信仰から生まれる愛でした。健全な教えは牧師の責任でしょう。しかし、きよい心と偽りのない信仰はおのおのの責任です。つまり、律法に照らされたときに罪を認めることができるか、それとも、律法に目を向けることさえせず、神様の存在を葬り去り、つまり、神をぼうとくし人生を闇の中で生きるかです。パウロは自分の証とヒメナイとアレクサンドロ(20節)に同じ言葉を用いています。すなわち「神をぼうとくする」という言葉です。パウロも以前には神をぼうとくする者だったのです。そして最も厳しいサタンという鬼教師の下で、奴隷のように働かされていたのです。しかし、主イエス様によって救われて(16節)、神を畏れることを学び、目に見えない唯一の神にほまれと栄光をささげる人物に変えられたのです(17節)。この手紙は誰の為でしょうか。テモテの為でしょう。しかし、恐らく、ヒメナイとアレクソンドロのため、そして読み手であるあなたにもパウロは委ねられた信仰の務めを委ねたいのです。 2.神をぼうとくするとは 神をぼうとくするとは、偽りの信仰をもつことです。すなわち、果てしない作り話と、系図の話はできても、救いの証は主イエス様のあわれみをうけないとできないわざなのです。すなわち、不法、不従順、不敬虔、罪深さ、汚れ、俗悪、父殺し、母殺し、人殺し、みだら、男色、誘拐、うそ、偽証、健全な教えへの反抗から私共は救われないといけないのです。教会に集えることも感謝なのですが、教会に通えるうちにこれらのすべてから救われる必要があります。そして、神から受けたあわれみを証しする者とならなければなりません。ここで、大きな問題は、多くの場合それを望んでいるが実現できていないということです。そこへいざなっているのが偽りであると言うのです。そして、偽りから救われるためには健全な良心でもって、神の御前に立つ必要があるのです。 3.満ちあふれる主の恵み 「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。」(ガラテヤ1章4節)罪の一つでも、自分の力で解決できると思っている間は、解決できません。なぜなら、神のみこころと違っているからです。神のみこころは主イエス様の十字架だったのです。 そして、私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれるのです(14節)。使徒パウロは「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものだと言っています(15節)。なぜ、そう言えたのかと言いますと、彼がかつて罪人だったからです。彼はキリスト・イエスによって罪から救われた使徒だったのです。 「キリスト・イエスの使徒」(1節)、じーん!ときませんか。そして(どうしようっ)と思いませんか。神はあなたを忠実な者と認めて(12節)この場に導いてくださったのではないでしょうか。主イエス様は偽りから救い出して使徒にできるお方です。飾ることをやめて主イエス様に御頼りし、「目に見えない唯一の神に」お仕えしてみませんか。 |
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