主のように(ピリピ人への手紙3章10節) ( 5.3/2010 )
「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり」ピリピ人への手紙3章10節 
 
このピリピ人への手紙を書いたパウロはユダヤ人のパリサイ人でした。当時パリサイ人は6000人くらいはいたそうです。

パリサイ人は律法を厳格に守る人々でした。けれども、長いお祈りはできますが、ささげものはできませんでした。これは、おそらくイエスさまに出会う前のパウロの姿であり、わたくしも同じでした。(マルコによる福音書12章38〜44節参照)

そんなパウロは、復活されたイエスさまに出会い、ひとつのことが変わりました。勉強しなくなったのではありませんが死に向かって歩むようになったのです。もっと単純に言いますと死に向かい合うようになったのです。

ピリピ人への手紙2章にはイエス様が十字架の死に至るまで従順であられたことが記されています。パウロにとってイエス様と出会って変えられたこととは、神が与えられる人生を従順に受け止めることを、悲観的にでなく積極的に受け止められるように変えられたことであると言うことが出来ます。

逆に彼は何を失い、何から救われたのかといいますと、それは肉の頼みでした。信仰者としてのしるし、立派な家柄、人から非難されることのない落ち度のない模範的な生活など。普段私たちが目指すすべてのものを益にならないものとしました。

「人生は何が成功なのでしょうか。」とパウロはここで問いかけているのではないでしょうか。世的に誇ることの出来る一切のものを糞土と言い放ってパウロ先生も人生を受け止めました。私たちも神から与えられた人生を大切に受け取らせていただきましょう。

神への信頼はこの世の誇りよりも尊いものなのです。

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