「わかるね、罪ゆるされたんよ。」(ローマ3章21節〜30節) ( 5.16/2021 )
「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」(ローマ3章28節)

「さあ、来たれ。論じ合おう。 −主は言われる−
たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1章18節)

本日は召天者合同記念礼拝です。「わたしは神に奉仕をささげたよ。」これは先に召された姉妹の言葉です。あなたに神はおられますか。この姉妹は神に奉仕をささげたと証言しておられました。

1.罪を赦すことができるお方がおられる

すなわち、神がおられます。仲たがいしたときに一番大切なことは、もめた相手と和解し、相手の笑顔を確認することです。私共の生涯に唯一罪を赦すことができるお方がおられます。それは、神です。なぜなら、今まで、神の愛を疑い、神を憎み、神に背を向けてきたからです。ゆえにもし、神の笑顔を確認出来たなら人生は変わるのです(ヨハネの黙示録3章20節)。まずは神に向かって心の戸を開いてみてください。

2.信仰による義(3章22節、24節、4章5節)

信仰が義と認められるのです。神がうらみったらしい存在なのではなく、愛のお方であると信じたその信仰を神が義と認めてくださるのです。恵みにより、キリスト・イエスの贖いを通して、価なしに義と認められるのです。

3.義の中身(3章24節〜26節)

それは、神がひとり子をお与えくださったその犠牲です。神は確かに私共を捜しに来てくださったのです。それは、ご自身のひとり子を世に送り、十字架の死に渡すという方法で、神は神の義を全うされたのです。義とされたのは神で、すなわち義を全うされたのは神で、私共は義とされたお方を信じる信仰が義と認められたのです。大切なのは私共の正しさではなく、神の正しさであり、神の御顔に輝く笑顔を見ることです。

神に向かって背を向けるのではなく、神に向かって立ち返る時に、神の笑顔は確認できるのではないでしょうか。神に向かって歩み始めること、これを悔い改めと言います。ただ一つ、厳しさを感じるのは神以外の存在の笑顔に差し替えることを神は許されないという点です。神以外の者を神にする誘惑に気づかされた時には、立ち止まり、真の神の笑顔をもう一度捜しましょう。すなわち、「賢くなるには好ましい」(創世記3章6節)という誘惑に注意しましょう。すべてを御手に握っておられるのは神です。人の賢さではなく神の賢さの先に神との交わりがあります。25節に忍耐をもって見逃された人々がでてきます。それは血によるなだめのささげ物である主イエス様を信じる日のためです。すなわち、私たちの誇りではなく神の愛で神は人生を建て上げたもうのです(ローマ3章27節)。鏡に映る自分の顔でなく、神の御顔の輝きで人は生かされるのです。

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