「一人でも散らされないように」(エゼキエル46章18節) ( 5.30/2021 )
「君主は民の相続地を奪って民をその所有地から追い出してはならない。彼は自分の所有地から、息子たちに所有地を受け継がせなければならない。それは、わたしの民がその所有地から一人でも散らされないようにするためである。」(18節)

1.王の忍耐(10節)

「はいはい、集まって〜っ」と外庭に民が集められます。王は門の戸口の柱のところに立っていけにえを祭司に渡し、内庭には入ることなく神に礼拝をささげ、民も外庭から礼拝をささげます。そして、王は民と一緒に帰るのです(10節)。民は北から南へ、そして南から北へ、王は東から東へ民を横切って、なんという忍耐だろうと思います。数え切れない無数の民が庭いっぱいに集まるまで王は門のふもとで待ち続け、帰る時も一緒なのです。

王はなぜ、民を待ち続けるのでしょうか。それは、聖なる神の御前に罪をゆるされる恵みに民に与らせるためです。

「東が西から遠く離れているように
主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。
父がその子をあわれむように
主はご自分を恐れる者をあわれまれる。
主は私たちの成り立ちを知り
私たちが土のちりに過ぎないことを
心に留めてくださる。」(詩篇103篇12節〜14節)

2.王の役割

王の役割とは民が神の御前に礼拝をささげるよう導くことでした。しかし、それぞれ、経済生活をしている以上、様々な困難に遭遇していたようです。一方、王の嗣業の地は広大であったようです。なぜなら、17節に自分の相続地の一部を、贈り物として奴隷の一人に与えるという記述があるからです。王は多くの奴隷の労働によってその産業が支えられていました。しかし、王として果たさなければならない勤めがありました。それは、第一には神に対してささげ物をささげることでした。そして、第二に、神の民を所有地から散らさないという役割がありました。病に陥り生活に困窮する方も多くおられたと思います。しかし民の相続地を奪うことは許されていませんでした。

3.イエス・キリストこそ真の王、真の神

神はひとり子をお与えになったほどに世を愛されました。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためです(ヨハネ3章16節)。罪とは神に対する反逆のことを言います。すなわち、キリスト、油注がれた王であるイエス・キリストが「神であった」(ヨハネ1章1節)と証言していますが、主イエス様を神として崇めないことこそ罪の本質です。
では、罪人はどうすれば罪赦されて神の子となれるのでしょうか。
歴代下7章14節には、「へりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」罪を悔い改めてイエス様に従う決心をするなら、神から引き離す一切の力は敗退するのです。
罪と神のきよい御霊は同居できません。

ダビデはサウルの手から救い出されたときに歌いました。「清い者には清く、曲がったものにはねじ曲げる方。苦しむ民を、あなたは救われますが、御目を高ぶる者に向け、これを低くされます。主よ、まことにあなたは私のともしび。主は私の闇を照らされます。あなたによって、私は防塁を突き破り、私の神によって、城壁を飛び越えます。」(2サムエル22章27節〜30節)

神は聖なるお方です。最寄りのキリスト教会へ行って、へりくだって罪を悔い改めて真の神を礼拝しましょう。王が待っていてくださいますから。神は奪うお方ではなく恵むお方です。一人でも、の一人が散らされないために、代わりにささげられたおかた、神の御子イエス・キリストに祈ってみませんか。

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