『罪に対する痛み』(レビ5章) ( 6.20/2021 )
「祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、
彼のために贖いをする。彼は赦される。」(:18)

序. レビ記に書かれている5つのささげ物の中の5番目、愆(けん)祭。異邦人社会では罪と挙げられない様な罪。クリスチャンの敏感な罪意識の上での罪の赦し。

1. 小さな罪

罪を告白し、十字架の贖いのゆえに罪が赦されたら、もう悔い改めることはないか、というと実際は逆。罪が赦され、神との関係が正しくなった者だからこそ、罪が見えてくる。御言葉の光は心の中を点検する。「救われる前の方が罪意識がなくて楽だった」と感じるかもしれない。しかし、それこそが神の前に健全な霊の状態。
「知らなかったんだから悪くない」というのは間違い。罪と知らなかった、というのは、それだけ罪に鈍感だったことを暴露するのみ。大罪にも麻痺することができる。
人は背骨が正しい位置に戻ると、それまでの状態で慣れた筋肉が悲鳴をあげる。しかし、それを続けていくと、真に正しい位置に戻り、真の健康となる。痛みを感じないことが恐ろしいこと。神との関係が正された人は、神に近づき、罪に対するセンサーが敏感になり、銀が炉に入れてきよめられるように純化されていく(詩編12:6)。

1)自分に不利となる時に、事実の証言を差し控える罪
2)汚れを後で感じ、咎を覚える時
3)口約束

2.罪に対する痛み

罪の赦しをいただくための供え物は、貧しい者であっても免除されることはなかった。たとえ、断食をして自分の食物をささげてもそれを罪の代わりの供え物とすることが命じられた。罰は罪の痛みを感じさせ、二度と行わない励ましの力となる。

3. 良心のとがめをすすがれる幸い

愆祭、償いとは相手に不利益を与えた分を支払うということ。義務感からの支払いは憎しみを生じるかもしれないが、愛による支払いは喜びとなる(マタイ5:41)。

神は、赦しを与え、どんなに小さくても良心の咎めをすすぎたい、と願っておられる。罪赦され、支払うべき負債を負っていない、ことほど、身も心も軽く、楽しいことはない。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(マタイ9:2)と言ってくださる。心に一物、背中に荷物を負っているその重荷を十字架の下に下ろし、救いの約束を、後回しせずに今日受け取らせていただこう。

「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」(ヘブル10:22口語訳)

おわりに. 神を畏れて歩む

きよめ、とは聖なることを行うことではなく、小さな汚れを打ちたたいて、排出させていただき、純化されること。「小さな」と思わず、罪に対するセンサーを敏感にしていただいて、悔い改め、心に平和をいただいて、確信に満ちた信仰の歩みをさせていただこう。
(説教者;田代美雪牧師)

TOP