「そこに水が注ぎ込まれると」(エゼキエル47章8節) ( 6.27/2021 )
「彼は私に言った。『この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。』(8節)

エゼキエル書40章以降は新しい神殿の預言です。神殿では犠牲にされた動物の血などを流すために川があったのですが、シロアムの池が新約聖書に出てまいりますが神殿から流れる水は貴重で、民数記19章17節にも出てきますがきよめの儀式には必要なものでした。この水がエゼキエル47章5節の新しい神殿では、泳げるほどの川になり渡ることのできない川となったのです。そして、この川は死海に流れ入って死海を生かすのです。

テレサ・テンが「時の流れに身を任せ」という歌を歌っていましたが、あなたの人生は何でしょうか?あなたの恋人ですか。聖書を読んではっきりすることは人生とは主イエス様であるということです。エゼキエル書47章の水の流れを追っていきますと、

1.流れ出る(1節)

先に、イスラエルの祭儀における水はきよめる役割があったと申し上げましたが、どうしてそのような力が水にあったのでしょうか。ガラテヤ3章13節には、
「キリストは、ご自分がわたくしたちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」主イエス様がのろわれた者となってくださったゆえに、私たちは信仰によって救われることができるのです。
では、主イエス様とは誰なのでしょうか。へブル1章2節3節には、
「神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座につかれました。」
そして、へブル9章12節には、
「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」とあります。すなわち、主イエス様は神です。

2.渡れなくなる(5節)

この47章は、新天新地の聖所の姿が黙示録21章22章にもありますが、その聖所から流れ出る水に例えられると思うのですが、そのような将来の川のことかもしれませんけれども、先に主イエス様の血潮に証されておりますように、現在の私共をきよめるものであります。具体的にどのように生活が変わるのかといいますと、
「その日になるとー主のことばー
あなたはわたしを『私の夫』と呼び、
もう『私のバアル』とは呼ばない。」(ホセア2章16節)
主の花嫁として苦楽を共にする契約の中に生きるのです。

3.死んだ地を生かす(9節)

水面がマイナス430m、塩分濃度30パーセントの死海が生き物の非常に多く生息する所となるというのです。どんなに出口のない人生に苦しむあえぐ方々がおられても、もし、主が私共を贖い共に歩んでくださるなら生きた人生になるのです。

何をもって救いと言い、生きるというのでしょうか。
預言者サムエルの次の時代にイスラエルの民は王を求めます。その時、王の権利が告げられます。第二次世界大戦下の日本国民が背負った重荷と同じことがそこに記されています(1サムエル8章11節〜17節)。すなわち、罪の奴隷となっている時、私共に悪魔が要求するものが確実にあるということであり、人々はそれに気づいていないのです。しかし、もし、創造主である神に立ち返るなら、神は救ってくださるのです。
ガラテヤ5章19節以降不品行、汚れ、貪欲、偶像礼拝などなどから、もし、主イエス様を信じるなら贖われて、5章22節以降の御霊の実、すなわち、愛、喜び、平和、寛容、などなどを受けることができるのです。

注意しなければならないのは、うぬぼれです(ガラテヤ5章26節)。
主イエス様によって救われた民は、神のしもべなのです。すなわち、聖霊をみことばによって常に注ぎ込まれる必要があるのです。



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