「望みを神に置いて」(1テモテ5章5節) ( 7.4/2021 )
「身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、」(5節)

1節、年配の男の人に対して、叱ってはなりません。父親に対するように勧めなさい。そして、若い男性に対しては兄弟に対するように。
そして2節には年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するようにと。教会には年齢と立場を異にする方々が集っておられるので、一律な対応でなく、各層の実情と問題を知ることと、忠告には適切性が不可欠であると教えています。続く3節から16節にはやもめに対する対応について、17節から25節には長老に対する対応について記されています。なぜ、性別と年齢に応じた適切な忠告、やもめと長老の3点なのか、男やもめと信徒はどこに行ったのかなど思いますが、単純に考えますとここに教会の問題点があったからです。
では、どのような方向に進めば良いのでしょうか。それは、肯定的に語られている部分ですので、4節「自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。」と5節の、「望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげている」信仰生活であると思います。

改善策は、

1.1節、男性の高齢の信徒を叱ってはいけません。この意味は、厳しく非難してはいけませんという意味です。表面上の言葉や態度で判断することは危険です。その真意を丁寧に聞く態度と共に、敬意をもって接しましょう。

2.8節、もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、・・・とありますので、自分の親族、そして家族の世話をすること。そして、14節若いやもめは結婚すること。

3.牧師のきよめの問題です。20節、罪を犯している者をすべての人の前で責めなさいとあります。私共の日常の感覚で考えますと、政治家と同じくらいの厳しい目で「すべての人の前で責めなさい」ということが求められています。しかし、だれが神の光の前に立ちおおせるでしょうか。その解決策とは、パウロはガラテヤの教会に十字架につけられたキリストが示されたのに・・・(ガラテヤ3章1節)と信仰による救いを受けた後、割礼(律法)に戻った信徒たちを悲しんでいます。本来牧師は吠え猛る獅子である悪魔(1ペテロ5章8節)から魂を救い出す者です。ダビデのように羊を獅子の口から救い出す者でなければなりません(1サムエル17章35節)。
11節に情欲にかられると、とあり15節サタンの後について行ったやもめたちとあります。すなわち、サタンは怠けずに働き続けているのです。24節には、ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになりますとありますので、将来の為にも今日ここで救いを受ける必要があります。

何が罪の生涯から私共を救ってくれるのでしょうか。「絶えず神に願いと祈りをささげ」(5節)とありますが、この「神」はここにおられて既にご自身の御子をささげて私共に対する愛を明らかにしてくださっています(ヨハネ3章16節)。そして、ご自身の御子を私共の夫として与えてくださっているのです(ホセア2章16節)。ガラテヤ3章13節も参照してくださって、自分や律法に対する信頼を捨てて信仰による救いを得てください。信仰は律法に比べれば簡単に捨てられる石のように弱く感じられるかもしれません。しかし、キリストへの信仰によって与えられるキリストの御霊(聖霊)と救いは具体的です。すなわち、現実であり、自分の熱心ではなくキリストの十字架という神の力が罪の力から私共を守るのです。
望みは自分にはありません。神にのみあります。ゆえに、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげましょう。真に頼りのないやもめのように神にのみ頼りましょう。

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