『赦しの完全に向かって』(レビ記6章) ( 7.19/2021 ) |
「祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、その上に薪をくべ、その上に全焼のささげ物を整え、その上で交わりのいけにえの脂肪を焼いて煙にする。」(12節) 序. 罪祭の主要点は神の怒りの宥め。愆祭の目的は償いによる和解の完成。 個々の悔い改めは救われた後から生じる。6:1-7は人への償い。人と神との平和。 1. 「これくらい」?の罪 罪は被害者と加害者の重みの尺度が異なる。加害者にとっては「小さい」と思える罪。しかし被害者の損害と恨みは深刻。解決は被害者が満足する水準の償い。 「盗み」は何故悪いか?盗む側と盗まれる側の価値が異なるから。そのお金が「生活費の全部」であるなら、それを盗ることは殺人に値する。万引きや噂で店が閉まったら?軽口で人が自殺に追い込まれたら?無料だからと無駄使いして損失を与えていたら?「借りパク」で貸した人が買い直した時の損失は?怠慢で他人の時間を奪ったら?健康を損ねさせたら?「気まぐれな不機嫌」で人を苦しめていたら?貧困者の搾取に気づかず贅沢な生活をしているとしたら?「愛は隣人に対して害を与えません」(ロマ13:10)。愛の反対は無関心。愛がなかった行為を詫び、相手の恨みを解消するよう務めることが「平和をつくる者」(マタイ5:9)の第一歩。 2. 聖霊の火をいただいて 人との和解が得られ、罪が赦されたなら、聖霊の火はますます熱く燃え上がる(マタイ5:2324)。それをしてくださるのは主イエス・キリストの犠牲と執り成し。救いの完成。たきぎは御言葉。祈りの風を送ろう。怠慢と不信仰で聖霊の火を消し、救いの喜びが絶えることのないように。人にも神にも喜ばれるクリスチャン生涯。「とがめなし」。 生ける礼拝こそ生ける神を見せる宣教。 3.イエス・キリストの生涯に与って 素祭は主イエスの奉仕と生涯。弟子として従おう。 罪祭は主イエスの祭司の務め。まず私の罪のための執り成し。 「私たち」の罪の執り成しをしていこう。 おわりに. 被害者が得をする論理 愆祭は加害者が損をする論理。被害者が最後に得をする論理。 この世で報いを直接償われなくても、天で報いが用意されている。 互いに赦され、赦し合い、自分の罪として執り成しの奉仕に与ろう。 (説教者;田代美雪牧師) |
|
|