「祈りの現実」(マルコ1章35〜39節) ( 3.27/2011 ) |
「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節) 主イエスの周囲は行動を共にする多くの仲間がいました。時には冗談を語りながら、貧しくても希望に満ち溢れた宣教活動を行いました。そんな主イエスにとっての良き知らせとは、いつも神が共におられるという事です。希望のある世界、貧しい者が幸いであると言う世界なのです。これは単なる慰みでもなければ勇気付けでもなく、現実にそうなると言う確信です。人にはどうしても解決を見込めない事柄がたくさんあります。けれども神と共にあると言う確信の中で、人は生きる活力と喜びを感じるようになります。これが我と汝の関係です。 私たちの場合、現実がどれくらい厳しいか推し量ることすらできません。しかしイエスは「神の国は必ず現れる」と約束されました。これは、どのような状況にあっても、どのような人であっても、神を信頼するすべての人に、必ず生きる命を与えてくださる、必ず実現する約束なのです。そこには、神がいて、主イエスが生きているのです。 どんなにつらい立場にある人々にも伝えることができた福音とは、目には見えないかもしれませんが、神、隣人、また友があなたの傍らにいて一緒に生きる喜びに溢れた良き知らせ、これが福音です。 イエスは自分を殺そうと企てる人々の住む町にやがて登っていき回心を迫ります。弟子達には「やがて、わたしはあなたがたに現れる」と預言しています。これは、どんなに厳しい状況にあっても、神は必ず私たちに命を与えてくださっている事をイエスは確証しています。ある老紳士は仰向けに寝ることができない厳しい痛みの中で福音を信じました。主イエスがたったひとり受難を受け入れたとするならば、私たちが苦況に陥っても神は共生していてくださることを教えているのではないでしょうか?傍らにいてくださるお方に静かに語りかけるように祈りましょう。そして主イエスのように支えて頂きましょう。私たちはこの福音を信じ、喜びを感じて今日を生きます。 明日も今日と同じように・・・皆さん祈りましょう。 |
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