「渡してはならない」(エゼキエル48章14節) ( 7.26/2021 )
「彼らはそのどの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない。その初めの土地を譲り渡してはならない。主の聖なるものだからである。」(14節)

この48章は土地の分割について記されています。1キュビトを44センチメートルとしますと、25000キュビトは11キロメートル(教会からJR東別府駅、または教会からマルミヤストアー狭間店の距離)、10000キュビトは4.4キロメートル(教会からにじが丘2丁目交差点、教会から西海岸までの距離)ですので、各部族東西の幅は記されておりませんが、25000キュビトの南北の幅から想像しますと、各部族大分市くらいの嗣業を得るということになります。聖所から遠いか近いかの違いはあっても平等に分割されています。

そして、聖所のある奉納地から北側に向けてユダ、ルベン、エフライム、マナセ、ナフタリ、アシェル、ダンの順で並び、奉納地の南側にはベニヤミン、シメオン、イッサカル、ゼブルン、ガドの順で隣接する国に向かって並んでいます。そしてヨルダン川の東側の嗣業の地はなくなっています。

1.迷い出てはならない(11節)

国が偶像礼拝に満ちた原因は祭司にありました。祭司は聖所の任務を捨ててはなりません。
ツァドクの子孫についてはエゼキエル書44章9節から15節やレハベアムの偶像礼拝事件(2歴代12章1節、1列王14章22節〜24節)を読んでいただければ、主がどうしてこのように名指しで祝福されているのかが分かります。
では、どのようにして与えられた使命を全うするのでしょうか。それは、「初めの土地を譲り渡してはならない。主の聖なるものだから」(14節)初めとは、いつでしょうか。既に罪に沈んでいたら、どうするのでしょうか。ツァドクが守ったエルサレムはどんなところだったのでしょうか。そこには罪が既にあったのです。けれども、ツァドクは捨てなかったのです。時が来れば、必ず、主が回復を与えてくださるのです。1ペテロ2章2節から10節をお読みください。
どんな困難があったとしても、私共を回復し、保ち、立てるのは主のいつくしみです(1ペテロ2章3節)。

2.レビのための門があった(30節〜34節)

北、東、南、西にそれぞれ3か所ずつ門が造られており、4500キュビトですので約2キロもあったとのことです。もはや防備のための門ではありません。北側にはレビの門も作られています。今、主イエス様の血で贖われた私共が、祭司とされて証をする門が準備されています。

3.この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる。(35節)

ヨハネ16章33節に主イエス様は言われています。「世にあっては苦難があります。」ですから、苦難に遭うからといって、苦難につぶされているからといって、主が私共を責めることはありません。かえって潰されている私共に「勇気を出しなさい」と言ってくださいます。
「わたしはすでに世に勝ちました」と言われる主は、私共のうちにいてくださいます。どのような方法で共にいてくださるのでしょうか。マタイ28章20節によみがえられたイエス様はこのように約束されました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」またガラテヤ2章19節、20節には「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」みことばを信じる者と主は共にいてくださいます。神に人生を明け渡してみませんか。

罪に沈んだエルサレム、そして神殿も、そして私共の人生も捨ててはなりません。すなわち、サタン(死)に明け渡してはなりません。主イエス様を信じれば必ずいつか主が回復してくださるからです。

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