「自分を神にささげよ」(2テモテ2章15節) ( 8.9/2021 )
「あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。」(15節)

日本、西洋、中国を問わず、写真が発明される前の時代から政治的な指導者の肖像画が数多く残っています。みな、自分がどんな存在なのか、どんな者になりたいか自分の姿を追い求めていた証拠です。しかし、私共の生涯において、もし、(悪魔に捕えられているのは嫌だ)と思い、(悪魔の手から逃れたい)と望まれるのなら、キリストと出会い、自分ではなくキリストを求める人生に入る必要があります。

その証拠に12節から13節に、「キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」とあります。すなわち、キリストを否むとき悪魔には自分では勝てないのです。ゆえに理想の自分の姿でなく、キリストを求めるのが正しい人生の選択です。

この世界に生きていくために皆、歴史を学び、文学を学び、学問を学んでいます。しかし、この世界は神の御手のもとにあります。ゆえに、まず学ぶべきことは神に関して学ばなければなりません。そのために聖書の世界に私共の生活は含まれていることを知らなければなりません。
なぜ涙するのか、なぜ病があるのか、隣人とどのように付き合っていけばよいのか、聖書には記されています。そして、何よりも大切なことは、創造主である、生きておられる神と親しい交わりをもつことです(エレミヤ23章22節)。人ではなく、神とのまじわりです。

涙、病、そんなの理由はないだろう、と思われるでしょうか。理由は創造主である神です。11節と12節に、「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる」とあります。病や涙される方を一番理解してくださるお方はキリストであり、キリストを遣わしてくださった神です。

自分ではなく、神をすなわちキリストを求める生涯とはどんな生活なのでしょうか。

19節に二つのことが明言されています。
1.主はご自分に属する者を知っておられる。
2.主の御名を呼ぶ者はみな、不義を離れよ。

「悪魔に捕えられて思いのままにされている人々でも目を覚まして、そのわなから逃れられるかもしれません(26節)。」とありますが、主は知っておられるのです。その人がだれに属しているかを(19節)。ここが肝です。きよい自分に酔うために神を信じるのではありません。
もし、キリストに属しているなら、食べ物が変わります。マタイ4章4節に「イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」とあります。
悪魔からの餌ではなく、神の口から出る一つ一つのことば、すなわち聖書のことばで養われようとしているかどうかを知っておられるのは神です。

今日、一番大切ことは、自分を神に献げるように最善を尽くすことです。自分のために自分をささげるのではなく、神に自分を献げなさいと勧めています。
自分の肖像画のために生涯をささげるのではなく、キリストのために、自分に与えられた生涯に涙や病があったとしても、そのままを、ただキリストの肖像画のためにささげましょう。自分のためにささげても、悪魔に隷属させられるだけだからです。

反対する人たち(理解できない方々)がおられても、ただただ優しくそして柔和に、議論しないでよく忍耐し、よく教え導きましょう。なぜなら、「かもしれません」(25節、26節)とあります。すなわち、人にはできませんが、神の御主権の下、神に、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせることができるかどうか委ねられています(25節)。

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