「心が変わる」(2テモテ3章15節) ( 9.5/2021 )
「また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」(15節)

熟達したパウロは若いテモテにどうしても伝えなければならないことがありました。使徒の働き14章19節に、「ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」とあります。これが、パウロが天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように福音を伝えた結果でした。そして、テモテはそれらの迫害や苦難について行った弟子でした。しかし、終わりの日という時代には、もっと違った形の誘惑があるので、十分注意するようにということが書かれている部分です。

まず、終わりの日とは、使徒の働き2章17節を読みますと、聖霊が主イエス様を信じる者に下ってから、主イエス様の再臨までの期間であることが分かります。その時代は困難な時代だとあります。人々が眠りに陥るそんな時代で(エペソ5章14節)、コロサイ4章1節にも、天に主人を持つ者であることを忘れてはいけない、と勧めてあり、機会を十分に用いなさい、と命じられています(コロサイ4章5節)。

すなわち、2節から9節には神よりも快楽を愛する者となる(4節)と指摘されています。敬虔の力を否定し(5節)とありますが、真の主人である神を見失っているということです。さらに欲望に引き回されて罪に罪を重ね(6節)、悲しいことに、いつも学んでいるのに、いつになっても真理を知ることができません(7節)。そして、やがてすべては明らかになります(9節)。
更に、悪い者たちや詐欺師たちにだまされます。もっと悪いのは、だましたり(13節)、誰のことかと思いますが、これはみなクリスチャンの交わりの中の出来事です。そしてやがて、ますます悪に落ちて行きます(13節)。

具体的には、敬虔の力を否定する者、欲望に引き回される者、詐欺師のような者、いや、者ではなく、クリスチャン、これが今日の問題となっているところです。
自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者となり、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まず、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者となる。見かけだけ敬虔で、愚かな女たちをたぶらかす。そして、罪に罪を重ねる(2節〜7節)のです。

けれども、救いの道は存在します。それは、聖書です。そして、その聖書に生きた祖母ロイスと母ユニケ(1章5節)を知っているということだというのです(15節)。そして、その生涯に証されていたものとは、キリスト・イエスに対する信仰です。

目が見えるようになるとか、歩けるようになることでしたら信じることができるでしょう。しかし、心が変わることを信じることができるでしょうか。ここで、キリスト・イエスへの信仰で勝利しなさいと命じているのです。(本当の幸せって何ですか?)
それは神が聖書を通して教えてくださるのです。そして、教えてくださるだけでなく良い働きのために整えてくださるのです。その力がキリスト・イエスに対する信仰なのです。

老齢のパウロは鋭い正しい目を持っていました。時代を見分け、若いテモテが道にそれそうになっていることに気づく力がありました。今、キリスト・イエスへの信仰がなければ、若者たちがまっすぐに歩めないことを知って、パウロのように、若者たちに「主イエス様への信仰のみ」を伝えましょう。主イエス様に心を変えていただいたことをお証しましょう。

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