「完全とは何なのか?」(創世記17章) ( 3.31/2011 ) |
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(1節) 創世記17章は、99歳のアブラムに対して彼の改名と割礼がなされたという神との契約物語です。割礼は当時、既にペリシテ人の地域等を除いてすでに行われていましたが、習慣に宗教的意味が与えられた時のことが記されているようです。 1〜8節 アブラムの改名 9〜14節 割礼という永遠の契約 15〜21節 サライの改名、イサクとの契約 22〜27節 割礼の実行 背景 アブラムはすでにハガルを通して子をもうけていましたが、その後13年間アブラムとサライの間には子が与えられませんでした。そして既に年老いアブラムは99歳、サライは90歳になっていました。この13年間で、アブラムの心にはイシマエルに神の祝福が与えられるようにという思いが湧いていたようですが、この17章を読みますと、神はサライの産む子、イサクと契約を結ぶと言われています(17〜21節)。そしてアブラハムは家族と僕たちに割礼を行います。 全き者とは何を意味するのでしょうか?新約聖書の著者達の解釈から学ばせて頂きたいと思います。 1.全き者とは神への信仰 創世記17章1節 人は存在として神の前に完全にはなり得ないのですが、神の御目的に対する完全を、神にひたすらに期待すると言う意味。(ガラテア3章6節参照) 2.歩みの原則として マタイ5章48節の完全の意味は、44節にあるように、神が正しくない者にも悪い人にも雨を降らせるお方である、それゆえ自分の正しさを主張することが天の父の完全と一致することではないことを教えていると思われます。神は恵み(受容)の原則に従って行動しておられます。神はさばきの神でなく、憐れみの神、赦しの神、恵みを与える神です。 3.憐れみ深い者となること マタイ18章の100デナリを取り立ててしまった僕は、当然の権利を主張しましたが、彼には憐れみの心が欠如していました。だから、負債のある者の首を絞め獄吏に引き渡してしまいます。この時、主人は僕のためにすでに十分な憐れみ(1万タラントのゆるし)を示しておられのです。私たちもそれぞれ心から兄弟を助け合いましょう。 4.全き目標としてのキリスト(ピリピ3章15節) 主イエスには私たちが目標とする姿があると思います。神に与えられた生涯は大変厳しいものでしたが、神は彼を覚え続けてくださいました。つまり、義について完全でなくとも、愛について完全であり、人の力に期待する完全でなく、神以外に頼りとするものを持たない生の完全さが期待されております。 割礼は、契約であると同時にひとつのしるしだったでしょう。これは単にアブラハム達が神に従って痛みを負ったということではなく、彼らは神に全てを任せてしまったことを教えています。それは単なるしるしに見える体の傷でしたが、それは彼らにとっては神が共にいてくださると言うしるしだったのでしょう。しかしキリスト者は、しるしの有無よりも神に絶対的信頼を持つことが大切です。パウロもアブラハム伝承の中の契約内容の割礼に言及しておりません(使徒行伝参照)。 キリスト教会がそうした「しるし」ではなく「洗礼」を最重要視するのは、パウロが言うように、神に背いた罪に死に、キリストにより生き返るという事を意味するからです。洗礼はキリスト者の人生の大きな節目にあたります。不完全な人間でも、完全である神により、私たちは生き生きと活かされているのです。 |
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