「神のめぐみ現る」(テトス2章11節) ( 10.10/2021 )
「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。」(11節)

神の恵みとは何のことなのでしょうか。それは、14節「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分をささげられたのです。」神が救いの道を開いてくださったというのが神の恵みです。

マタイ24章には、主イエス様の再臨について記してあります。そして、忠実なしもべであるようにと勧めてあります(マタイ24章45節)。しかし、同時に心に留まるのは主人の帰りは遅くなると心の中で思い仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているしもべたちが、帰ってきた主人に厳しく罰せられるのです。更にマタイ25章にはタラントの話も出てきます。タラントが小さいしもべがタラントを埋めていたために主人に叱られるのです。
そして25章の最後には31節から解説があり、「『この最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(マタイ25章45節46節)と締めくくられています。
神様の勧めは読めば理解はできます。しかし、このテトス2章では、「年輩の男の人は自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように」(テトス2章2節)、その他、年配の女の人には神に仕えている人にふさわしくふるまうこと、人を中傷しないこと、大酒の虜にならないこと、良いことを教えること、そして、若い女の人たちに慎み深く、貞潔で、家事に励み、善良で、自分の夫に従順であるように諭し(テトス2章3節〜5節)、その他若い人には思慮深くあるように、伝道者は良いわざの模範となるように、人を教えることにおいて偽りがないように、品位を保つように、健全なことばを用いるように、奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように、そして、救い主である神の教えを飾るように勧められています。
すなわち、自分を制し、品位を保ちということだけを取りましても(どうしよう)、と思ってしまいます。イエス・キリストの再臨を待ち望む以前に主人を待ちつつ苦しみを担うところでつまずいているのです。

しかし、テトス2章の後半に証言されておりますのは、そんな私共のために、「実にすべての人に救いをもたらす神の恵みが現れた」というのです。

すなわち神の恵みです。私たちはそれぞれ弱さをかかえ十分でないと感じているかもしれません。神様のことも考えたくないかもしれません。しかし神の恵みですので自分で準備した救いではなくて、神が救いをご準備くださったのです。それもすべての人に与えられるものとして。
それが、イエス・キリストです。14節「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」

実生活ではプライドや財布の中身などと私共の心は直結しているかもしれません。また夫に従いたくないかもしれません。しかし、神様が今日教えてくださっているのは、イエス・キリストによって代価は領収済みだというのです。すなわち、自分の力で戦うのではありませんと告げられているのです。

イエス・キリストの十字架を見上げて、不法から贖い出されたのです。逃げ込むところを間違ってはいけません。良いわざはあなたのものではなくキリストのもの。熱心な選びの民となることもあなたのものではなくキリストのもの。すなわち神のものとして、神に祈って従って神からのきよめを受けるのです。しかしそれは、恐らく、神に従わない人々から迫害される道です。辛いことが伴う道です。

けれども13節に「望み」とあります。「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」(テトス2章13節)
ですから、どこまでもイエス・キリストの後について行って、イエス・キリストの望みを失わないようにしましょう。
だれでも罪から救うことができるからイエス・キリストは恵み、そして栄光を伴って来てくださるからイエス・キリストは望みです。すなわち栄光は世ではなくイエス・キリストが握っておられます。そして、何よりも、あなたは今すでにイエス・キリストにより世から贖われイエス・キリストの所有とされています。

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