『神に用いられる人』(レビ8章) ( 10.17/2021 )
「モーセは会衆に言った、『これは主が、するように命じられたことである。』」(レビ記8章5節)

序. 人はみな誰かの役に立ちたいと願う。神と人に役立つ人とはどのような人か?

1. 奉仕者の条件―「水の洗い」、回心

人はいつも方法を求める。しかし、神が求めておられるのは「人」(バウンズ)。
神の奉仕者に世の資格は要らない。「これは主が命じられたことである」。奉仕者とは神の用に応える人。「神が立てた」故に奉仕者を重んじるべき。
しかし、奉仕者には条件がある。罪が清められていること。神は汚れた器を用いることができない。清められた器は主人のどんな用にも役立つ(Uテモテ2:21)。

2. 祭服―務めがまたその人の内側を整えていく

召した方はその働きにふさわしく、働き人を整えることもできる方。漁師を説教者に。
外観は自分の立場・務めを自覚させ、務めはその人の性質をそれにふさわしく整えるよう働きかける。「主イエス・キリストを着なさい」(ロマ13:14)。
洗礼や教会籍、職場や知人の前での信仰表明も「わたしはキリストのもの」という服の役目を果たす。自分を世から守る鎧、また世に対する宣教。

祭司の務めは「祈り」。大祭司は胸当てに十二部族の名が彫られた宝石を担っていた(出28:21)。この部族の中には途中で歴史から名を消した部族もある。しかし、大祭司の胸には十二部族がいつも覚えられていた。教会では信徒とその家族のために、求道者のために、休んでいる方のために祈りがささげられている。誰が祈らずとも大祭司主イエスの胸にはあなたの名前が刻まれている。
再臨の時には十二部族全員が主の前に揃うという希望を持ちながら祈る。

3. 自我の磔殺―肉、誇りを十字架に

任職祭に特徴的なのは、血を右の耳と手と足につけること。右とは力の所在。人間の肉の誇りは益がない。返って神の邪魔になる。信仰は単純が良い。

「しかし、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」(ガラテヤ6:14)

この肉こそ奉仕者の戦うべき最大の敵。これが教会内に争いを起こす(Tコリント3:3)。神は無きに等しい者を奉仕者に召される。人間が誇ることがないため(Tコリント1:26-31)。

「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(同25)

4. 食事と退き

奉仕者はキリストの肉を食する者。そのために密室に退くこと。討論より祈り。

おわりに. 祈りが最大の奉仕

もし、自分が奉仕から離れて、聖い生活を送ることができるだろうか?
自分にできる奉仕に最後まで召しを感じて働きたい。
手を組むことは天に召される日までできる。祈り手こそ神の最大の奉仕者。
奉仕者の自覚をいたただいて、主の前に立つ日まで主のお役に立つべく仕えよう。それぞれに置かれた持ち場で。あなたの賜物で。病をも賜物として。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)

(説教者;田代美雪牧師)

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