「恐怖に対する勝利」(ダニエル書3章18節) ( 10.25/2021 ) |
「しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」(18節) 1. 現状 バビロンの王ネブカデネツァルは恐怖をもって人民を支配していました(15節)。何が問題なのでしょうか。恐怖によって支配していた王は偶像礼拝に従う者には寛容であったという点です。現在私共の教会では信仰継承をと願い神に祈っていますが、それを難しくしている要因として悪魔は恐れという武器で子どもたちを自分の奴隷としています。例えば、お金、什一献金なんて考えられない。マラキ書3章10節に「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来、わたしの家の食物とせよ。」と命じられていますが、お金というサタンの武器に簡単に屈して神から離れ、奴隷として生き延びようとしてしまいます。これでは、神の助けを受け損ねてしまいます。 2.神の助け マラキ書3章16節から18節には「そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。『彼らはわたしのものとなる。―万軍の主は言われるーわたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。』」とありますが、このネブカデネツァルをも恐れなかった神の民は燃える炉に放り込まれても髪の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火の臭いも彼らに移っていませんでした(ダニエル3章27節)。 3.恐怖から信仰へ このダニエル書でネブカデネツァルが用いたように、悪魔は今も恐怖という武器で私共を隷属させています。どうすれば神に従うことができるのでしょうか。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴには神々の子のような第四の者が付き添っていたとネブカデネザルは証言しています。すなわち、火の中を縄を解かれて歩いている神の民の姿と御使いの姿を見てネブカデネザルは神を求め始めました。そして、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神に不敬なことを口にすることを禁じるのです(ダニエル3章29節)。しかし、ネブカデネツァルが神に求められていたことは、神を礼拝することだけではなく、偶像を捨て去ることでした。ダニエル書4章5節以下に彼には神によるお取り扱いが続くことになります。人間に心を与えてくださった神以外に礼拝の対象をもってはいけません。 自分の家にはすでに仏壇や神社や神棚があって取り除くのが怖いという方、怖いということは恐れに支配されている証拠です。悪魔に自分の力で立ち向かうのは戦い方を間違っています。無理です。ですから神のことばである聖書を調べ信じて立つのです。人は死んだ後さばきを受けることが定まっています(へブル9章27節28節参照)。 神に祈ったことは受験の時しかないという方、子どもが熱を出したときだけだというお母さまも神との関係が回復されるためには神の御子イエス様を信じなければなりません。神が嫌いで近づきたくないという方、御子イエス様の血が私共をきよめるのです(1ヨハネ1章7節)、自分の罪を告白して罪の赦しと不義からのきよめを求めている方、「もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1章9節)わたしの罪は重すぎてきよめられるなんて無理ですという方、黙示録7章14節には子羊の血でその衣を洗い、白くした人がでてきます。ダビデは王でしたが失敗をし、それでも悔い改めたとき(詩篇51篇)、彼は緋のようにしみ付いて消せないと思っていた罪を神にきよめてもらいました(イザヤ1章18節)。 イエス様の十字架を信じ偶像を捨て去り、恐怖に勝つ信仰を頂きましょう。(ローマ3章22節) |
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