「あきらめないで」(テトス3章5節) ( 11.7/2021 )
「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」(5節)

ジョン・バンヤンには2回の転機がありました。一回目はたまたま婦人たちの会話を耳にしたときに、それは生活の愚痴やうわさ話ではなく、新しく生まれ変わるとか、こんな喜びがあるなんて考えたこともなかったという言葉でした。そこで、彼はその婦人たちに声をかけて聞くのです。いったい何について話しているのかと。そして、その生活の秘訣は何なのかと。すると、「まず、自分を全く捨て去り、イエス様を信じることです。そして、信仰生活をながく続けたかったら、ちゃんと教会に出席してお説教を聞くことです。」と聞くのです。そして彼は教会へ行くのですが、途中内容は良く覚えておりませんが彼は聖書を通して神は良い人も悪い人も養ってくださるということを知るのです。その時、彼は空しかった心に喜びを感じるのです。すなわち、必要なものだけで暮らして、余ったものは貧しい人たちのために使おうと決心するのです。

正確かどうかはわかりませんが彼の第二の転機は、教会生活が板に付いたころ訪れます。すなわち、罪を犯しては教会で悔い改める生活を繰り返していた時、(いったい俺は何をしているのだろう)と苦しみ始めるのです。そして、奥さんもいるのに放蕩に身を持ち崩すのです。当然教会にも行かなくなってしまうのです。そんな時、神様は彼の奥さんを身ごもらせるのです。そして生まれた子は全盲だったのです。そして、この時、彼の人生に分かれ道が現れます。普通に考えますと、(神様、この子の目を見えるようにしてください。そうしたらあなたを信じます)というような信仰でしょう。けれども、彼は牧師に導かれ、イエス様が流してくださった血潮を信じるのです。すなわち、行いによってではなく、主イエス様が私共の罪を赦すために血を流してくださったと信じるだけで罪が赦されることを信じたのです。そして「罪の赦しに特別なしるしなど必要ないのです。」という言葉を聞いたときに彼は罪の奴隷から解放されるのです。1653年彼が25歳の時でした。彼は鋳掛屋を営みながら、無給で説教をする説教者となりました。ちなみに、目の見えない娘のメアリーは生涯目が見えないままでした。そしてバンヤンは何度も清教徒として投獄され、妻はやせ衰え病気をし、メアリー以外の子どもたちは養子に出されます。そんな中、妻も死んでしまいます。けれども、メアリーは貧しい伝道者に見そめられ結婚するのです。これが神様の御業です。

私たちは、生活が苦しくなったら(もうだめだ)とか、物欲の奴隷のままだ(もうだめだ)とか、信仰生活をあきらめてしまうことがないでしょうか。バンヤンを導いた牧師は、「あなたはキリストがあなたのために血を流してくださったことを信じているでしょう。」と問いました。(あなたは、信じておられますか。)主の血潮だけで十分なのです。そのほかは必要ないのです。聖霊があなたを再生するのです。あなたが自分を再生するのではないのです。聖霊におまかせしましょう。今、あなたのものとして神の愛とご計画を受け取ったらよいのです。あなたの知恵やわざでなく、神のあわれみが聖霊によってあなたの人生を守り導く、再生し刷新するのです。生きておられる神がおられるのです。

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