「十二か月目の分かれ道」(ダニエル4章2節) ( 11.28/2021 )
「いと高き神が私に行われたしるしと奇跡を知らせることは、私の喜びとするところである。」(2節)

この4章全体はバビロンの王の救いの証しです。バビロンの王ネブカデネツァルは夢を見、その解き明かしをダニエルに命じるのですが、その夢の解決のためにダニエルはネブカデネツァルに勧めます。「木の根株は残せと命じられていますので、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立つでしょう。それゆえ、王よ、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、また貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう」(27節)、と。ところが、十二か月後、彼は「私が私の権力によって建てた」と発言してしまうのです。このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があり、「国はあなたから取り去られた。」と告げられるのです。人の心を造り変えることができるものとは、

1. 時間
この十二か月の間に彼のなすべきことはダニエルによって語られていました。すなわち、それは世界を支配されているのは天の神であることを知ることであると。十二か月、何分でしょうか、一日が1440分で、その365倍の時間があったのです。
しかし、時間が彼を変えることはできませんでした。

2. 勧め
正しいことを行うこと、そして貧しい者をあわれむことと示された天の神の命令は無視されて十二か月過ぎたのです。

3. 試練
平穏な十二か月は彼の生活を変えることはできませんでした。そして、理性を奪われ牛のように草を食べ、その体は天の露に濡れて野の鳥のように生活することになります。しかし、彼の心を変えたのは試練ではなく、「その期間が終わった時」すなわち、天の神の御旨でした。

さて、私共はネブカデネツァルのような主権者になることを成功者と思っているのではないでしょうか。しかし私共を創られた神は、バビロンの王に求められたように私共にも天の主権者である神を認め、神の命令を行うことを求めておられます。では、いったいどうすれば神を認め、神の命令を行うことができるのでしょうか。すなわち、高ぶる思いを死に渡し、正しく生き、弱い者を愛することができるのでしょうか。ネブカデネツァルは理性を奪われ、神の定められた期間待たねばなりませんでした。

すなわち、彼は自分の努力と熱心で神のみこころを行おうとしても行えなかったのです。けれども、私共のためには、時が満ちて、神はすでにひとり子、御子イエス様を送ってくださいました。イエス様は世の終わりまで共にいてくださって私共を救ってくださるのです。私共は自分の力で隣人を愛することはできないのですが、主イエス様にはできるのです。

今こそ、私共のためにも、時が満ちたのではないでしょうか。十二か月目に罪がポロッと口からこぼれるのではなく、十二か月目には(もう私はダメです。主イエス様助けてください)、と自我の代わりにキリストの御霊を心にお迎えし、神の栄光をあらわす器となりきって、すべてをささげ御霊によって歩んでみませんか(2コリント3章18節参照)。主イエス様がすべての人の魂を既に十字架の血で買い取ってくださっているのですから、ただで、今日キリストのゆるしを受け取り、キリストのものとされましょう。人の心でも、獣の心でもなく、キリストの霊の器とされましょう。

日本人の救いのために生涯をささげてくださった宣教師は、晩年息子たちを戦争で失います。すなわち、バビロン王よりも厳しい試練に遭います。しかし最期のことばは日本人の知人のための祈りのことばであったそうです。キリストは彼を心に迎えた器を見捨てないのです。

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