「ここに飼葉桶がある」(ルカ2章7節) ( 12.12/2021 ) |
「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(7節) 神が選ばれたのは宿屋でなく家畜小屋の飼葉桶でした。人々は宿屋を神の御子に明け渡すことができませんでした。というのが神の御子のお誕生の出来事です。 1.部屋もなく望みもない 初代皇帝アウグスト(BC63年〜AD14年)が全世界の人口調査を命じたとき、ベツレヘムは大勢の人が集まり宿屋はいっぱいで空いている部屋はありませんでした。 私たちの心も神にお従いする余地は残っていないかもしれません。ルターは法学の修士叙階を受け、大学が一人で外出・外泊することを許していなかったので友人のアレクシスとともに実家に帰ります。そしてマンスフェルトからエルフルトに戻る途中で事故に遭います。雷に打たれ、ルターは吹き飛ばされ地面にたたきつけられるのですが、友人のアレクシスは雷の直撃を受けて亡くなります。1505年7月2日ルターはこの友人の死を機に自分の生き方を変えます。大学を退学し修道士になる決心をするのです。彼はこの悲しい出来事を神の語りかけと信じたのです。 2.布団もないが神が遣わしてくださいました やっぱり、ルターって特別な人だね。ということを言いたいのではないのです。神は御子を十字架にささげてくださったのです。決して遠い出来事ではないのです。ただ、神に従う力が私共にはないのです。聖書ははっきりとそんな私共の心を語ってくれています。「肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7章25節)。神学校はあります。でも、肉に対して無力なのです。第一に、自分の心は罪の律法に仕えてしまうと認めることです。しかし、大丈夫なのです。「いのちの御霊の律法が罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8章3節)すなわち、御子にお泊りいただくための布団もないのですが、神が私共の罪のためにご自身の御子を十字架にかけられるという愛によって、行いによらず信じて救われる道を開いてくださいました。信じるとはお任せするということです。自分の力ではなく御子を信じると、御子が私共を罪から解放してくださるのです。 3.飼葉桶がある 神は御子イエス様が飼葉桶に寝かされることを良しとされました。昔々、学校に住み込みで働いている男の人がいました。彼は礼拝にも出席できず、外で庭の手入れをしながら説教を聞いていたそうです。学生は彼に聞きました。「あなたは幸せですか。」彼はこう答えたそうです。「はい。わたしはわずかばかりのパンと水があれば生きていけるのです。」と。そして、外仕事をしながら聞いて覚えた聖書の言葉を伝えて、悩んでいる青年を励ますのです。 私共の心の中にも主イエス様は御宿りくださるのです。日常は変わらないのですが、私共が変えられるのです。キリストは、知識や名誉や財産にではなく飼葉桶に来てくださったのです。 |
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