「主をほめたたえよ」(詩篇103篇1節〜22節) ( 12.26/2021 )
「わがたましいよ 主をほめたたえよ。」(1節)

この詩篇103篇は魂の証し、または叫びです。
魂は、肉体のいったいどこにあるのでしょうか。その場所は良くわからないのですが、確かに魂は存在し、うめき、うなだれ、または賛美します。誰に出会い、どんな言葉を聞き、どんな顔を見せられるかで人は立ち上がりもし、倒れもします。

1.完全な救い

人が罪ゆるされ、その束縛から解かれることは人のなしうる業ではありません。自分自身によっても、またお医者様によってもできるものではありません。
ただ、聖書には「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(へブル7章25節)とあります。世界中に主イエス様によって罪から救われた人々が大勢います。それはただ彼を信じた人々になされた奇跡です。しかし、同時にゆるされた者全員が知るのは彼のささげられた代価の大きさです。自分のどんな苦しみによっても払いおおせなかったものをキリストは惜しみなく捨てて、今も私共のために救いを与えてくださるのです。

今日の詩篇の作者ダビデは「東が西から遠く離れているように」(12節)と証ししています。これはダビデの心に現れた真実な神による御業です。ですから、神の赦しは実在するのです。

「父がその子をあわれむように」(13節)父親はどこまでもその子をあわれむでしょう。同様に神も私共をどこまでもあわれんでくださるのです。

2.賛美の対象

一番の大きな敵はどこにいるのでしょうか。それは一番身近な自分自身ではないでしょうか。神を賛美している詩篇作者がいる!と気づく時、同時に気づかされることは、自分は自分を賛美することを画策していたということです。
すべてのとがを赦し、病をいやすことも(3節)、いのちを穴から贖い、恵みを与えることも(4節)、良いもので満ちたらせ、若くし新しくすることも(5節)神の御業です。
ですから、自分ではなく神への賛美を希求しましょう。

3.賛美する道

神を賛美するとはどんな道なのでしょうか。「主のみこころを行い、主に仕える者たちよ。」(21節)とありますが、私の友人は母教会の先生に献身の際にみことばをいただいたと証ししてくれました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16章24節)だったそうです。服の汚れていない人ではなく、涙の跡のない人でもなく、あなたと同じ苦しみのあるキリスト者はキリストを知っています。彼の内にはキリストがおられ、キリストはあなたにも救いを与えてくださるのです。ゆえにあなたも、十字架にまで神に従ってみませんか。そして神に祈ってみませんか。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。」と。

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