「こんなにすばらしい救い」(へブル2章3節) ( 2.6/2022 )
「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。」(3節)

へブル人への手紙2章は御使い(1章14節、マタイ18章10節、黙示録14章6節〜12節、使徒12章、ヨハネの黙示録20章1節〜3節)と主イエス様を比較しながら主イエス様のご生涯を見なさい(9節)、と命じてある部分です。へブル人が誇りとしよりどころとしているものの一つに、律法すなわちこの章では御使いがありました(2章1節、ガラテヤ3章19節)。しかし、主イエス様は御使いよりも優れたおかたであり、彼を通して与えられる救いは様々な形で証されています(3節、4節)。

そして、その救いとは「来るべき世を従わせるものだ」(5節)と説明し、救いの主である主イエス様は栄光と誉れの冠をかぶせられ、万物を彼の足の下に置かれたと証しされています(7節、詩篇8篇5節、6節)。しかし、今日の主題は、「それなのに」(8節)であります。すなわち、すべてのものが人の下に置かれているのを見ていない(8節)。主イエス様を信じたのに問題解決を未だ見ていないよと訴えているのです。

しかし、その答えは「万物の存在の目的であり、また原因でもある神」(10節)だというのです。神がそれをふさわしいとされたというのです。では、(救いとは苦しみから救われることではないのでしょうか)と質問したくなるのですが、神がそう定めたというのです。そして、ただ主イエスを見るのです(9節)。では問題の解決はどこにあるのでしょうか。

1.(それは死の恐怖からの)解放(14節、15節)
2.あわれみ(深い大祭司をもつ)(17節)
3.(試みを受けている者を)助ける(18節)
この上記の三つのことを主イエス様はなしてくださいました。

いったいこんなスーパーマンみたいなこと、どうやって実現したというのでしょうか。

それは、民のためのなだめによってです。
宥めとは、岩波書店の国語辞典によりますと、「物事が荒立たないように、怒っている人、悔しがっている人をたしなめたり慰めたりする。穏やかに済むようにとりなす。」とありました。

宥めはすべての点で同じようになる(17節)ことによって実現しました。14節の血と肉をもって来てくださったことによって、そして、私共を死の恐怖の奴隷にしている悪魔をご自分の死によって滅ぼして宥めがなされたのです。

苦しみを通して多くの子たちを栄光に導くことにされた神とあなたは和らぐことができますか。自分の苦しみの持っていき場がないと怒られますか。救いとは神に近づく道のことです。律法を行うことによってではなく、主イエス様に、(今、つらいです)と訴えてください。あなたの大祭司、主イエス様があなたを真の神にとりなしてくださいます。あなたのそのままを主イエス様にお任せしてください。「主イエス様は、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」(18節)

あるご夫人が親戚の伯母さまのLINEを使って一枚の写真を送ってくれました。その写真には一言もコメントはついていませんでした。しかし、メッセージは私の心に届きました。(伯父が約束を守ってくれたよ)という喜びのメッセージでした。

主イエス様も必ずあなたへのお約束を守ってくださいます。(助ける、18節)ただ主を信じましょう。9節、日々、ただ、主イエスを仰ぎ見つつ。

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