「神の家を治めるキリスト」(へブル3章6節) ( 2.13/2022 )
「しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし、確信と希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。」(6節)

へブル人への手紙の構成は、一部が主イエス様の優位性(御使い1章〜2章、指導者たち3章〜4章13節、祭司4章14節〜7章)、第二部がキリスト教がユダヤ教よりも優れているということ(契約8章、聖所9章1節〜10節、ささげもの9章11節〜10章18節)、第三部がキリストに従うことの実際的な意味(10章19節〜13章25節)となっています。ということで、本日の3章は指導者たちよりも優れておられる主イエス様の部分です。

この手紙が書かれた背景はへブル2章3節によりますと、主イエス様に直接出会ってその言葉を聞き、十字架を見、復活と昇天を見た人々の次の世代になっていたということです。更に難しい点はささげものの記述がございますので紀元70年以前の人々です。すなわち、エルサレム神殿があり、祭儀が行われていて、いつでもユダヤ教に戻れる環境が整っていたという点です。しかし、著者は読者に新しい生ける道を勧めています(へブル10章20節)。

さて、この3章には詩篇95篇7節から11節が引用されていますので、このイスラエルの通ってきた歴史を繰り返さないようにというのがそのメッセージです。しかし、そのためにモーセにも勝る使徒(キリスト教の指導者)であり大祭司(ユダヤ教の指導者)であるすなわち権威者である主イエス様がおられますと紹介しています(1節)。
そこで、まずモーセ、次に主イエス様、最後に13節の励まし合うことを学びましょう。

1.モーセ モーセとはイスラエルをエジプトの奴隷から導き出した指導者です。しかし、民は彼に逆らい、神に対して不平を言います。何度不平を言ったと思いますか。@葦の海(出エジプト14章11節〜12節)、Aマラ(水が苦い、同15章24節)、B荒野にて不平(同16章3節)、Cマナの集めすぎ(同16章20節)、D安息日にマナを集めた(同16章27節〜29節)、E水がない(同17章2節、3節)、F偶像礼拝(32章7節〜10節)、G不平(民数記11章1節〜2節)、H美味しい食事がない(同11章4節)、I神を信頼することができない(同14章1節〜4節)それにも関わらず、モーセは神にとりなします。何と抜きんでてすばらしい指導者でしょうか(同14章20節〜22節)。

2.キリスト 14節に「私たちはキリストにあずかる者となっています。」とあります。そしてキリストは6節に「キリストは御子として神の家を治めることに忠実でした。私たちが神の家です。」なぜそれが可能なのかと言いますと、3節に「イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。」そして4節「家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。」すなわち、神によるからです。

3.日々互いに励まし合う(13節) 何と言って互いに励まし合うのでしょうか。(きっと将来美味しい水が飲めるよ)と言うのでしょうか。その答えは、(キリストが神の家である私たちを治めてくださるよ)と言って励まし合うのです。キリストが治めるとは、キリストが信仰の中心だよということです。使徒の働き4章12節に「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

洗礼を受けてからしばらくすると、どうして教会に行っているのだろうか、どうして献金しているのだろうか、どうしてご奉仕しているのだろうかと思ってきた。そのうち世の友達ができて、誘われるままに教会から離れてしまったという方がおられるかもしれません。しかし、私共には聖霊が与えられています。彼は確かにあなたに危険信号を出されたはずです(マタイ12章31節、32節)。今、傍らにはお酒が並んでいるかもしれません。
でも、まずローマ8章38節から39節「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。そして、ヨハネ第一の手紙4章18節から19節「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」ヤコブ4章4節には「世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」とあります。

希望と確信は御子にあります。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一の手紙1章7節)救いはただ偏に御子の御業です。

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