「同情」(へブル4章15節) ( 3.6/2022 )
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(15節)

へブル人への手紙の受け取り手はへブル人であり、元ユダヤ教徒であった人々でした。ですから、手紙の書き出しからどうしてユダヤ教のままではいけないのかその理由が記されています。1章1節から3節を抜粋してみますと、「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」すなわち、今神は預言者ではなく御子によって語っておられるというのです。これがキリスト教です。本日神に聴こうとしている4章は主イエス様が指導者よりも優れているという部分(3章1節〜4章13節)と祭司よりも優れている(4章14節〜7章28節)の両方が記されており、章の区切り方に特徴があります。すなわち、手紙の受け取り手の歴史の中に不従順という問題点があり、その克服のためにどうしても不従順を解決してくれる祭司が必要なのだというどうしても解決しなければならない問題のために祭司の記事が4章に含まれるような区切り方となっております。

4章を、流れを追って見てみますと

1.神のみことばを聞いても信仰によって結び付けられず安息に入れなかった先祖たちのようにならないようにとの勧め(1節〜11節)

7節に詩篇95篇7節、8節が引用されており民数記13章14章で約束の地に入る機会を不従順のために逃してしまったのだけれども、あなたがたにはまだ神が再び定めてくださった今日がある。だから心を頑なにし落伍しないようにと命じています。注目すべきところは11節です。不従順の悪しき例に倣うと落伍すると告げられています。更に

2.神の御前に被造物はさらけ出されている。神の御前に申し開きをする時が来る(12節〜13節)。

「神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄とを分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」と神のことばで裁かれるとき、偽りは通用しないのです。神様の恵みを拒否したことは明るみに出されます。もうどうしようもない私共なのですが、

3.神の子イエスという偉大な大祭司がおられる(14節〜16節)

主イエス様は、罪は犯しませんでしたがすべての点において私たちと同じように試みに遭われたので、私たちの弱さに同情できるお方だよというのです。まずこの15節の罪は犯しませんでしたというのは、どうすれば罪を犯さない人生になるのでしょうか。新約聖書の5ページにマタイの福音書4章というのがあります。空腹の試み、神を試みる試み、世の栄華の試みに対してどのように勝利されたのかが記されています。そのようにして罪を犯されなかったお方ですが、試みに遭われたので同情できるというのです。苦しんだことのない人には同情はできないのです。でも、主イエス様は苦しまれたからこそ同情できるのです。

具体的になぜ同情できるのでしょうか。冒頭にへブル1章3節に「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」罪のきよめを成し遂げ大いなる方の右の座に着かれ今も生きておられるから同情できるのです。

ヨハネ14章16節〜17節には「助け主がいつもあなたがたとともにいるようにしてくださいます。」そして、ヨハネ16章7節「でも、もし行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」16章14節「御霊はわたしの栄光を現されます。」と約束されたように、御霊によって主イエス様は共にいてくださいます。

昔死刑が決まっている受刑者がいました。彼は生きるためにうそをつくことは理解できるが、死ぬためにうそをつく人間はいるはずがないという悟りを得て、主イエス様を信じました。すなわちイエス様が自分の罪のために十字架にかかってくださったお方であると信じたのです。信じた結果、彼の人生は変わりました。本当に主イエス様に罪を負っていただいた後の人生は変わるのです。

主イエス様が同情できる救い主である証拠は他にもあります。
「手を伸ばして彼にさわり」(マルコ1章40節から42節、新約聖書67頁)、「近寄って棺に触ると」(ルカ7章14節、新約聖書124頁)、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11章35節、新約聖書206頁)

きょう、あなたも主イエス様に対して「今も生きておられ、同情してくださるすくいぬしとしてあなたを信じます。」と生きておられる主イエス様に対して信仰告白なさいませんか。受刑者のように即座に救いの御業はなされます。安息、すなわち、自分のわざを休むことができるでしょう(へブル4章10節)。恵みの御座に近づきましょう。すなわち、同情してくださる神に祈ってみましょう。

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