「しかしそれは」(ダニエル書7章22節) ( 3.27/2022 ) |
「しかしそれは『年を経た方』が来られるまでのことであり、いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た。」(22節) ダニエル書は前半の1章から6章がダニエルの人生について、後半の7章から12章まではダニエルが見た幻について記してあります。7章と8章はベルシャツァル王の治世に、9章はダレイオス王の治世に、10章から12章はキュロス王の治世に見たものです。これらの夢はバビロンから始まり世の終わりまで続いています。ダニエルがバビロンに連れ去られたのが紀元前605年、ダニエルが獅子の穴に落とされるのが紀元前539年、捕囚の民がユダに帰還するのが紀元前538年、ダニエルが働きを終了するのが紀元前536年ですが、この7章で語られている彼が見た幻は、11章31節の「常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。」アンティオコス4世の治世で紀元前168年から紀元前167年の出来事です。また7章10節「いくつかの文書が開かれた」という幻は主イエス様の誕生、ご受難、死、葬り、復活、昇天を越えて、主イエス様が再び来られ、最後のさばき、すなわちはるか未来にまで(黙示録20章12節)及んでいます。 本日学ぼうとしております7章は大きく三つの部分からなっており、前半の8節までは17節によりますと4人の王たちについて、9節から15節までは終わりの時の預言、16節から26節まではダニエルの傍らに立っていた者たちの一人(天使)による第四の獣についての解き明しとなっています。すなわち、恐ろしい形相をした王たちによってイスラエルは苦しめられるのですが、26節、最後にはさばきがはじまり王たちは完全に絶やされ、滅ぼされるのです。 1.4人の王たちについて(1節〜8節) 3節の四頭の大きな獣について、第一のものは獅子のようで鷲の翼をつけていました。これはバビロンのことです。 第二の獣、すなわち熊に似た獣とは、メド・ペルシア(カルデヤ、リデヤ、エジプトを征服した)です。 第三の獣は豹でギリシャのことです。四つの翼は4年間(紀元前334年〜330年)で文明化された世界のほとんどを征服したアレクサンドロス大王のことであり、四つの頭は彼の死後4つに分裂した国の区分を指しています。 第四の獣はローマと世の終わりのことを指しています。10本の角は10人の王のことです(ヨハネの黙示録17章12節)。彼らは反キリストに仕えてキリストとその従者たちと戦う力の総体を表していると言われています。 2.終わりの時の預言(9節〜15節) 9節の『年を経た方』は全能の神です。 10節「幾千もの者」は御使いたち(ヨハネの黙示録5章11節、12節)のことを、また10節の「いくつかの文書」は黙示録20章12節に記されており「数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」とあります。救いを賜物として受け取った者たちはこの天の登録簿に名が記され、ルカ12章8節9節にあるように、主によって天の軍勢に紹介されるのです。この書は誰が神に属するかを神が知っておられることを象徴しています。このさばきの時には、善行によっては救いに入れられることはありません。 そして13節の「人の子のような方」とは救い主である主イエス様のことです(マタイ26章64節、ヨハネの黙示録1章7節)。 3.第四の獣についての解き明し ダニエルが傍らにいた人に尋ねた第四の獣についてですが、黙示録17章12節一時だけ権威を受け、14節子羊に戦いを挑んだことが記されていますが、黙示録13章7節には、「聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことを許された」獣がいます。このダニエル書によりますと7章21節には、「その角は聖徒たちに戦いを挑み、彼らに打ち勝った。しかしそれは『年を経た方』が来られるまでのことであり、いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た。」とある通り角は年を経た方によって打ち破られるのです。黙示録20章4節には「イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々の魂を見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。」と約束されています。 苦難は『年を経た方』全能の神が来られる時までのことです。神は一時と二時と半時の間と定めてくださっています(25節)。今も神を恐れない行状が世界で行われていますが、永遠には続かないのです。わたくしどもの取るべき態度は、悔い改めて真の神に聴き従う者となることです。すなわち、汚れを捨てて聖い神を信じ、神による救いに与かって神の力を知り、ご再臨の日まで耐え忍んでお従いしつつ賛美し主に栄光を帰すことです。「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(1ペテロ1章7節、新約465頁) では、どうすれば7章8節にあるような大言壮語する口やその存在に耐え、年を経た方が来られるのを待つことができるのでしょうか。使徒の働き16章25節には「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。」とあります。主イエス様に祈り、神の栄光をたたえる時、主がわたくしたちを変えてくださるのです。また、ヨブ記28章19節には純金でも(主を恐れる人生を)値踏みすることはできない、自分たちの価値では量れないと言っています。そして1ペテロ1章13節から23節によりますと、キリストがご自身の尊い血で贖ったと言っておられます。すなわち、これからも生きておられる主こそ危機の時にも助けを与え、最終的にさばき、御国を受け継がせてくださるお方なのです。神の御国の前味わいは教会で体験することができます。それは愛です。「愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。」(1ヨハネ4章8節) |
|
|