「痛み」(ルカ23章34節) ( 4.10/2022 ) |
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(34節) 神はキリストの祈りにこたえてくださいました(マタイ27章54節百人隊長の救い、使徒の働き6章7節祭司たちの救い)。神にこたえられる祈りは痛みを伴っていたことを考えてみましょう。 愛を受けるのは愛される側ですが、愛する側には何が与えられるのでしょうか。それは神の愛です。けれども問題があるのです。それは痛みが伴っているということです。ある研修会に参加したとき、研修会が終わって解散するとき、もてなしてくださったクリスチャンの方からかばんのプレゼントを頂きました。「みんなからです」とのことでした。痛みを越えて愛してくださった方々の生き方の中にもやはりキリストの祈りのこたえがありました。 では、キリストの祈りのこたえが自分の人生に現れるにはどうすればよいのでしょうか。どうすれば、愛されることではなく愛することを喜びとできるようになるのでしょうか。どうすれば痛みを乗り越えられるのでしょうか。 マタイ6章14節15節「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」これは主イエス様が主の祈りを教えられた時に第一に解き明かされた大切な教えです。 ではどうすれば赦すことができるようになるのでしょうか。そのためには貧しさにも、無関心にも、あざけりにも、病気にも将来の不安にも勝たなければなりません。 マタイ16章18節「よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」すなわち、主イエス様を神の子と信じ告白するときにサタンは手出しができないのです。そして主に従い主と共に歩まなければなりません。 すなわち伝道の主体は私共ではなく主ご自身なのです。主がおゆるし下さらなければ誰一人として礼拝に集うことはできませんし、まして主にお従いすることもできません。使徒2章47節「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」とあります。すなわち主にお仕えすることが必要です。主の教会になれさえすれば主が教会に魂を加えて導いてくださいます。神を愛すると神のみこころを行うことがうれしくなるのです。そして神も喜んでくださるのです。愛するからみことばを守るのです。その証拠はヨハネ14章21節です。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」すなわち自分の思ったままに生きない人を神は愛されるのです。 ソロモン王は人生を空と言いました。しかしパウロとシラスには打ち傷と牢獄という家が与えられましたがその中で主を賛美しました。あなたは何をそして誰を求めますか。神様を喜ばせるために生き、神を愛してみませんか。人生を終えるときに空だったと思わなくて済むように。神が(用いたい)と思ってくださるような器になれるように、神を無視した人生を悔い改め、神にお従いする祈りをおささげしませんか。ここは主の教会です。主イエス様の祈りはサタンのわざをこぼち必ずわたくし共の心の思いにはゆるしと愛が与えられます。神は御子のゆえに私共を赦し新しい人生を与えてくださるのです。すなわち、神は御子により天国のような教会、家庭、職場、学校にしてくださるのです。 |
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