『悲しみから喜びの転換』(ルカ24章13節〜16節、28節〜36節) ( 4.17/2022 ) |
「『道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。』」(32節) 序. イースタ―おめでとうございます。東日本震災の復興期、「鋏状格差」があった。同じ被災者の間にも喜ぶ者と悲しむ者の差が大きくなっていくというもの。 桜の時期、様々な心理が行き交う。喜む者もいれば焦る者もいる。主イエスの復活の後も、弟子達の間には喜ぶ者と悲しむ者の差が生じていた。悲しみから喜びに移った弟子の姿を見て参りたい。 1.無知からくる悲しみ 主の復活のニュースを聞きながら、午後にエルサレムを離れる者達がいた。その心は失意。その原因は無知。「空の墓」と聞いて、不信感だけが生じる。そこに主イエスは近づかれた。しかし、気づかない。悲しみの中にある者の特徴は自分の周囲だけの世界に閉じこもる。目がふさがる。隣にすべての解決者がいても、心の恐れはなくならない。 2.悲しみに寄り添う主イエス 悲しみの時、一番嬉しいのは寄り添われること。余計な言葉は返って疲れる。主イエスは不信仰をたしなめたが、急いで説得はされなかった。相手のペースに合わせてそこからじんわりと心をほぐしていかれた。主の優しさ。 この絵の美しさ。復活の始まりはひっそり。ひとりを追う主。静かな場所。 その方法は御言葉の解き明かし。受難の意味。預言の成就。 3.復活の主の臨在を感じる時 顕現は普段の夕食シーンで為された。主の臨在は特別な秘儀ではない。 御言葉を通して、交わりを通して、恵みを通して、痛みを通して、日常で。 「燃えていたではないか」。時に回顧を通して、臨在を教えてくださる。 Footprint。どん底の時にも、つばをかけられ、よみにまでくだってどん底を経験し尽くされた主イエスが、私と共におれらたことを知る。 終りに. 死してよみがえりしキリストの血がわたしに 死人に恐れはない。キリスト者はすでに十字架で死んでいる者。 その血によってキリストの命によって生かされる者。 主の死と命をいただいて、今も生きておられる主と共に歩ませていただこう。再臨の日の出に向かって。 (説教者;田代美雪牧師) |
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