「隣り人と共に生きる」(ヨハネ11章32〜53節) ( 4.17/2011 )
「すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。」(44節)

イエスは死んだ状態に陥った者も活かし、また多くの人々を癒やしましたが、心身の癒しも救いなのです。救われるとは、神の圧倒的な力に触れ、その命の力によって活かされる事を意味します。神は、この世のすべての人たちが救われることを望んでおられます。教会に来ない人がどうなっても関係がないと考えておられるのではありません。災害にもかかわらず、瓦礫の中から生き延び、一日も早く、必要なパンを得て、希望を持って歩むように、私たちが助け合い、共に歩むことを望んでおられます。

神は、私たちを活かすために、すべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。しかし、自然災害そのものは、神のせいで起こるのでも、人間のせいで起こるのでもありません。それ自体を私たちはどうすることもできません。けれども、自然に手を加えて自然を破壊したり、原子力発電所をつくるのは人間の責任です。災害の後に互いが助け合うかどうかも、私たちの責任です。私たちはその責任を果たす事ができているのでしょうか。神は必要なものを与えてくださいます。その与えられたものを生かし、神の力に支えられ、私たちに任せられている課題を果たさなければなりません。

イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を背負わなければ、自分の命を救うことにならない」と語りました。すなわち、人は力があればあるほど、自分の知恵や力を誇り、自身で何かをしようとし、自分以外の意見を聞かなくなります。そして、神の考えを知ろうとせず、神の力に頼ろうとしなくなります。自分の知恵や力を頼みに行動するようになると、どうしても自分の都合を優先させてしまいます。その結果、ひとりよがりの生き方が周囲の人たちの間にも広がります。これは自分を捨てていない状態を現しているのではないでしょうか。神に祈る時も自分の利益だけを追い求めるようになり、「我々すべてを守ってください」という祈りが、「私(だけ)を守ってください」に変化してしまいます。

自分の十字架を背負うとはどういう意味でしょうか?主イエスが十字架に至る苦難の道を歩んだように、私たちも苦難の道を歩む事です。 それは私たちにふりかかってくる苦しみや悲しみと表現する事もできます。主イエスがこの世の争いごとから逃避し、安全な場所で心静かに生活していたら、苦難の道を歩むことも、十字架に至る事もなかったでしょう。しかしイエスは、神の力に生かされ、この世の苦しみに嘆く多くの困難な人たちと共に生きようとされました。十字架を背負うとは、この世から逃げない、人を見捨てない、自分だけ安全地帯で生活するのではなく、その人たちを見捨てずに共に生きるということではないでしょうか。

主イエスはこの世から逃れようとはしませんでした。人々を見捨てませんでした。十字架を掲げ、イエスを主とする教会が、自分たちのことだけを考え、あるいは自分たちの教会が繁栄することだけを考えるとすれば、これは自分を捨てていない人、となってしまいます。十字架を背負うということは、この世の困難な状況の中に身を置き、この世に生きる人たちを見捨てず、共に神の力に生きることです。その時、どんなに困難は大きくても、ラザロ(死んだ状態から活きた状態になる)に続く者が起こされます。

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