「完全に救う祭司、イエス」(へブル7章25節) ( 5.1/2022 ) |
「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(25節) 7章の内容は人々を完全に救うお方が主イエス様であるという内容なのですが、へブル人への手紙の受け取り手であるユダヤ人たちのために祭司と主イエス様が比較されています。祭司たちが罪の贖いのために用いたのは動物たちの命でした。しかし、主イエス様は自分自身を献げものとされ、ただ一度でそのことを成し遂げられました(27節)。 分析 1節〜3節 神の子に似たメルキゼデク 4節〜10節 メルキゼデクの偉大さ 11節〜19節 祭司職が廃止される理由ともっと優れた希望 20節〜25節 イエスはとこしえの祭司そして契約の保証 26節〜28節 イエスによる罪の贖い 概略は3節、9節、11節、17節(詩篇110篇4節)、25節、28節。 ユダヤ教の祭司職によっては完全さに到達できず(11節)、前の戒めは弱く無益なために廃止され(18節、19節)もっとすぐれた希望が導き入れられたのです(19節)。主イエス様はご自分に対して言われた神の誓いによって祭司となられました(21節)。そして、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになるのです(25節)。弱く無益な前の戒めでもなく、弱さをもつ人間たちでもなく、主イエス様を信じてみませんか(28節)。 さて、天よりも高く上げられた大祭司(26節)主イエス様は、いと高き所で大いなる方の右の座に着かれました。 へブル1章3節「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」 主イエス様が「右の座に着かれた」とは、その使命を完遂されたということを意味しています。キリストの犠牲は決定的なものでした。 へブル7章27節「イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。」 民が祈願文を彫り込んだ石柱を建てて毎日祈祷文をとなえても、国の代表者が毎日毎日祭儀を行って犠牲をささげても罪の意識は去りません。しかし、へブル10章10節から14節を読みますと主イエス様がささげてくださった血潮には聖なるものとする力があるのです(へブル9章14節も参照)。 救い(へブル7章25節)は苦しみが無くなるという意味ではなく、神の子になるという意味です。神の子の「神」とは国の代表者や理想の存在などではありません。創造主のことです。 へブル2章10節「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神にふさわしいことであったのです。」 主イエス様はご自身を犠牲としてささげ、その死によって私たちを悪魔の力から解放してくださったのです。 へブル2章14節「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を開放するためでした。」 悪魔だの死だの贖いだの関係ない、ゆとりある生活、それが一番の幸せだと主張される方のために。嫌いな人がひとりでもいるならその人生は地獄ではないでしょうか。そうは感じませんか。主イエス様はそんな人生から救ってくださいます。ただ赦し愛することができるようにするだけでなく、死からよみがえらせてくださるのが主イエス様です。一緒にお読みしましょう。 ヨハネ6章39節「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」、 40節「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」、そして 44節「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」、 54節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」 そして、主イエス様はよみがえらせるだけでなく、永遠に生かしてくださいます。 ヨハネ6章51節「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」、 58節「これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」生けるパンを食べるとは、キリストを私たちの人生に受け入れることと、主イエス様と一体になることを意味しています。私たちは2つの方法でキリストと一体になります。主イエス様の死と復活を信じることによって、そして主イエス様が命じるように生き、導きを主イエス様の教えに頼り、力を聖霊に信頼することによってです。 (理解できん)という方は主イエス様に祈って御霊をもとめてください。御霊は神に背を向けてきたことを悔い改めて洗礼を受けたら与えられます。 使徒の働き2章38節「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」 主語(行動される方)は御霊です。 ヨハネ14章17節「この方は、真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」 |
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