「悔い改め」(ダニエル書9章19節) ( 5.22/2022 )
「主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、心に留めて事を行ってください。」(19節)

分析

1節〜2節 荒廃の期間が70年(エレミヤ25章11節、12節、29章10節)
3節〜19節 悔い改め、11節〜13節 モーセの律法に書かれているのろい申命記28章
20節〜27節 罪の告白に対する答え、預言

ダニエル書には4人の王様が登場します。その中で二つ問題があります。第一は、ベルシャツァル王は誰の子なのか。そして二つ目はダレイオス王とは誰なのかです。9章はダレイオス王の治世の部分です。ダレイオスとは誰なのか。9章1節によりますと「クセルクセスの子」とあります。では、クセルクセスとは誰のことか。キュロスの古代ペルシャ語名はクルシュですのでキュロスのことならばそれでいいのですが、キュロスによってバビロンを治めるように命じられた者とか、キュロスの別名との説もあります。
まず時代背景の大枠ですが、紀元前612年ペルシャ王キュロスはアッシリアの首都ニネベ攻略のためにバビロンと同盟を結びます。そして、紀元前539年にはバビロンを倒すためにメディアと連合するのです。そして同年、バビロンのベルシャツァル王をキュロスは殺害します(6章30節)。
次にベルシャツァル王とは誰なのか、ネブカドネツァルは紀元前605年に2回目のエルサレム攻撃をしてから43年間の治世の後死去、息子のエビル・メロダクが紀元前562年から2年間支配し、彼の義弟ネグリッサルが紀元前560年から4年間支配し、紀元前556年ラバシ・マルドゥクが2カ月間支配した後、紀元前556年から紀元前539年までナボニドゥスが支配し、ナボニドゥスの息子であるベルシャツァル王が紀元前553年から紀元前539年まで第二の者として父とともにバビロンを支配していました。しかしダニエル書5章によればベルシャツァル王はネブカドネツァルの子です。
ダニエル書では1章から4章がネブカドネツァルの治世、5章7章8章がベルシャツァルの治世、時代がメド・ペルシャに代わって6章9章がダレイオスの治世、10章11章12章がキュロスの治世です。
しかし、このダニエル書の主題はこの王たちの治世という点にあるのではありません。彼らはどんなに高ぶっても主の前にへりくだらせられ、震えあがって主に生かされていた者にすぎません。すなわち、ダニエル書の主題は、主権は主にあるという点にあります。

そしてこの9章の特徴はこのような主権者であられる主に対してダニエルは悔い改め、悔い改めた結果、ガブリエルが飛んできて終わりの時に至るまでについてみことばを語ったという点です。

1.悔い改め

6節「聞き従いませんでした」、7節「あなたの信頼を裏切ったためです。」、8節「わたしたちはあなたに対して罪を犯してきました。」、9節「私たちは神に逆らいました。」、10節「みおしえにも、従って歩むことをしませんでした。」、11節「御声に聞き従いませんでした。」、13節「あなたの真理によってさとくなれるように、自分たちの神、主に願うこともしませんでした。」、14節「私たちが御声に聞き従わなかったからです。」、15節「私たちは罪を犯して、悪を行いました。」と。

それは12節に「みことばを成就されたのです。」、14節にも「主のなさったみわざはすべて正しく」と、神の主権を認めた祈りでした。そして18節「御前に伏して…あなたの大いなるあわれみによるのです。」と、罰を受けて当然であるということを告白してただ主のあわれみを求めました。

そして21節、悔い改めの祈りをささげているときにガブリエルが飛んできてダニエルに近づき一つのみことばを伝えに来ます。その内容は、70週の出来事なのですが(24節)、背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行うというのです。70週とは490日でしょうか?
罪を犯した場合、何回まで赦すべきかというペテロの質問に対して
マタイ18章22節には「イエスは言われた。『七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。』」とあり、7は完全を意味するために用いられています。ゆえに比喩的に捉えてよいかと思いますが、一応内訳は、油注がれた君主が来るまでが七週(23節)、苦しみの期間が六十二週(25節)、多くの者との契約を結ぶのに一週間(27節)、そして荒らす憎むべきものが現れる。そして定められた破滅が荒らす者の上に降りかかるのです。
マタイ24章15節には主イエス様による解説があり、続く24章27節には、「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。」すなわち、地上のすべての人に見える形で人の子は来られ、同31節「人の子が選んだ者たちを集めます。」同35節「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」そしてマタイ25章には天の御国の話が続きます。すなわちマタイ24章は世の終わりのしるしで、24章10節から13節「多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」そして、最後の一人が信じたとき終わりの時が来ます(14節)。ここで問題は偽預言者です。主イエス様が戦われたのは、律法学者やパリサイ人たちでした。

マタイによる福音書23章23節「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人…十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。」もっと決定的に語られているのはルカ11章42節「十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」パリサイ人と律法学者は神を見失い律法に仕えていたというのです。神とは主イエス様のことです。ダニエルが悔い改めていることも、今私共に求められていることも同様ではないでしょうか。信仰生活をおくり、みことばを覚える。けれども主を見失っていて主が命じられた隣人を愛することを忘れていて、教会に通っていたら天国に入れると思っている。これは間違いです。主を愛さない人は天国には入れません。悔い改めて主と隣人への愛を求めること、すなわち、聖霊を与えられるまで悔い改めの祈りをささげるのが教会の置かれている目的です。朝起きて祈り、仕事の前に祈り、仕事の終わりに祈り、目の前に置かれている課題のために常に主の助けを祈り求めなければサタンには絶対に勝てません。隣人を愛せないみじめな人生になってしまいます。

2.終わりの時

ダニエル9章27節「荒らす者が現れる。」
マタイ24章10節11節「そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」

憎むこと、これは大変危険です。100パーセント惑わされている状態です。ですから教会に来て主に悔い改め、主に従う決心を新たにする必要があるのです。赦し愛する心を聖霊によって与えられるまで祈りから立ち上がってはいけないのです。
2テサロニケ2章4節「不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の座に座ることになります。」「神の座に座る」みなさん、主イエス様に自分の王座を明け渡すまでは、不法の者の子分であると認識すべきです。もし、教会に通っていても主イエス様に出会うことなく立ち去ってしまうなら、自分は礼拝されるべきお方、すなわち主イエス様に対抗していて自分を高く上げていて地獄行の列車からまだ降りることが出来ていないときちんと認める必要があります。では、主イエス様に出会うとはどういうことでしょうか。主イエス様のおことばに対して、悔い改めてお従いする決心をするということです。

また、偽預言者はしるしを行えます。
黙示録13章13節から15節「また、大きなしるしを行い…地に住む者たちを惑わし…拝まない者たちをみな殺すようにした。」敵の戦略は「惑わし」です。目的地をすり替えるのです。主イエス様に導く者か、それとも偶像やしきたりまたは伝統、もっと悪質なのは人間の良さなどイエス様以外のものに導く者か、どちらなのかよく見極めましょう。これは救いの本質にかかわる大切な問題です。「惑わし」すなわち主イエス様以外のものに導くものはすべて間違っています。例は人々の称賛など。「大きなしるし」すなわち、どんなにすばらしい働きでも間違っています。そして、本物は悲しいですが世に殺される運命にあります。ですけれども、ただ主イエス様に対する信仰へと魂を導くのです。そして死を恐れる必要もないのです。1コリント15章には死に続く世界が約束されています。死の恐怖や悲しみに勝てるでしょうか。死の前に苦しみに耐えられるでしょうか。分かりませんし、直ぐ、怒ったっり、失敗します。ですから主イエス様に祈り、主イエス様以外では戦わないと決めましょう。
すなわち、主イエス様がゲラサ人の男の悪霊を追い出されたように、自分も同様に主イエス様がいてくださらないと悪霊に自由に使われてしまう者であることを認める必要があります。そして、主イエス様に祈って願いましょう。「主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、心に留めて事を行ってください。」(19節)と。主イエス様が生ける神だからです。主イエス様が解放者だからです。このお方に祈ったら奇跡が起きます。
たとい24時間常に四名の兵士、四組に監視され、両手を兵士たちにつながれていても主の奇跡は起きます。その条件とは、
使徒の働き12章5節「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」です。

へブル2章14節15節「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」
へブル3章12節「生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」
へブル9章14節「とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょう。」
へブル11章37節「石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。」
へブル12章11節「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」
へブル12章14節「聖さがなければ、だれも主を見ることはできません。」
へブル12章28節29節「このように揺り動かされない御国をうけるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。私たちの神は焼き尽くす火なのです。」敬虔、すなわち主イエス様に自らの弱さと愚かさそして醜さを悔い改め、主イエス様だけをお迎えし御頼りし主イエス様にお出まし頂いて、お従いできたら大成功です。あとは揺り動かされない御国を感謝しつつ目指しましょう。ただ主イエス様の喜びを教えていただきながら。

TOP