『ただ聖霊が』(使徒の働き1章1節〜8節) ( 6.20/2022 )
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、
エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(8節)

序. 今月はペンテコステの月。聖霊降臨と世界宣教の始まりを今一度喜びたい。

1. 世界宣教が始まる準備

ペンテコステは聖霊降臨日。ここから教会が始まり、世界への宣教が始まった。
何事にも準備期間がある。ビリー・グラハム大会は開催期間は数日だったが準備に2年かけられたそう。まして、世界にキリスト教の宣教が始まろうという時に準備がないはずがない。その準備は主イエスご自身が成してくださった。イエスは宣教を「行い始め、教え始められた」。それは伝道、十字架、復活のこと。それは「始まり」に過ぎない。本当の宣教は主イエスが昇天された後、聖霊として降ってからだ主イエスの宣教の本番だと聖書は語る。自転車が第一回転目が回れば、後は乗れる。その一転目を主イエスが始めてくださった。今も聖霊として時間空間に限定されず、弟子たちと共に働いてくださっている。「主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」(マルコ16:20)。

2.証人となる

牧師などの資格と違い、証人は主イエスを信じたすべての人がなれる。証人とは、1)「わたしたちはこれが真実だとわかる」と言える人、2)言葉ではなく行為によって証しする人」、スタンレーは「もしこれ以上リビングストン博士と生活すると、博士は何も言わないけれど、わたしは完全にキリスト者にさせられてしまう」と言った。3)「殉教者」。証人はいつでも、殉教者になる心構えをしている人。どんな犠牲を払っても忠誠を貫き通す人。

3. からっぽの器

エリシャは空の器に油を注ぐと油が次々満ちた(U列王記4:3)。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、」(8節口語訳)。聖霊は「慰め主」(ウイクリフ)、元の意味は「勇気ある」。「わたし」が空しくならなければ、聖霊は満ちない。

「自分が罪びとだ」と認めることほど、自由なことはない。もし「罪びとでない」と言うなら、そのような振る舞いで自分をがんじがらめにしてしまう。
「私は罪びと。しかし、十字架の代価できっちりと負債が支払われた罪びと。だから、何も恐れない。」これが福音の力。聖霊はそれをいつも知らせてくださる。御言葉によって。アメリカの小学校でお弁当を盗んだ1年生の子。罰はムチ10回。「ぼくが代わりにムチを受けます」。それは盗まれた小6の子。ムチはすべて盗まれた子が打たれた。それ以来だれも悪いことをしなくなった。キリストの贖いはそれと同じ。

終りに. 120人から世界に

信仰者は120人から始まった。しかし、小石が水面に波紋を広げるように、そこから世界の果てに宣教は広がった。その記録が使徒行伝。
 2−1=19? 水曜教会学校のピンチ。人を当てにしていた。勇気をもって誘いに。礼拝時間に19人おやつ時に14人。主が奇跡と共に働いてくださる。
(説教者;田代美雪牧師)

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