「空虚な墓と先に立つイエス」(マルコ16章1〜8節) ( 4.24/2011 )
今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。(7節)

復活祭(イースター)はキリスト教の典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念するものです。主イエスはアリマタヤのヨセフの手によって岩を掘って造った墓に葬られました。1997年に「陰謀のセオリー」という映画が上映されました。人の心を操作する薬物の研究に関するサスペンス映画でした。約2000年前の主イエスの死の直接的原因は、安息日になされた治療行為や神殿を否定する発言と行為、また律法至上主義を批判したため、律法を擁護する権力者たちの陰謀でした。弟子たちはイエスの死で、絶望の底に追いやられます。しかし、その後イエスの復活と言う出来事で劇的な変化を起こしました。

最も古い復活伝承は、『コリント人への第一の手紙』に書かれている「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れた(15章3-5節)」です。パウロはイエス死後5年目に、この伝承をエルサレムでケファとあだ名されたペテロと主の兄弟ヤコブから聞きましたが、簡潔な形でまとめられた復活伝承です。この最古の伝承には、「復活した」とか「現れた」とか書かれてあるだけで、イエスの亡骸が起き上がって動き出したという類の叙述は一切ありません。
 
これと並ぶ古い伝承が記されているのが、今日の箇所マルコ福音書16章1-8節です。ここでも、「あの方は復活なさって、ここ(墓)にはおられない(6節)」と書かれていて、復活について理性的に説明しようとする意図は全く見られません。恐らく、これは「信じる」ほかはない事柄だと示しているのでしょう。イエスの死後、この「空虚な墓」の出来事は弟子たちの生き方を根底から揺さぶり、それを弟子たちは信じました。それまでは、イエスは完全に死んで、既に過去のものになったと思われていましたから。アリマタヤのヨセフは、イエスの完全な死を確認し、遺骸を墓に納めて大きな石で塞ぎました。それから3日目に女の弟子たちが亡骸の腐敗を防ぐために「油を塗りに」行きましたが、何と墓は空っぽだったのです。これを空墓伝承と呼び、多くの聖書学者はこれを事実として認めております。空の墓には白い衣を着た若者(御使い)がいて、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と彼女たちに告げたと記されてます。イエスは亡くなった、しかし今も生きておられ、それも単に「思い出の中に」生きているのではなく、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる(7節)」と言われます。イエスは、今も将来へ向かって進んでいるのです。
 
先にガリラヤに行くとは何を意味しているのでしょうか? それは、主イエスの本来の使命を継続するためと考えられます。弟子たちはその使命を共に担うために招かれたのです。「そこでお目にかかれる」というのは、そのような意味でしょう。イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1章15節)」というメッセージを語ったのは、そのガリラヤでした。そこで出会った民衆すべてに語りかけ、特に最も弱い立場にある人を心から慈しみ、心と体を病む人々を癒やし、弟子たちに「敵を愛せよ」と暴力による報復を禁じ、真の平和(シャローム)を約束された地であります。しかしガリラヤとは、今やこの世界すべてを指します イエスが生と死をかけて明らかにした真実は決して過去のものではありません。主イエスは再びこの世界・ガリラヤで、愛と平和の業を続けておられす。「貴方達も一緒に来て、私と共に生き、多くの人々を救うように」と呼びかけているのです。こうした現実を、イエスは復活されたとマルコは表現しています。私達には乗り越えられない困難があり、厳しい生活をし続けなければならない状況下にあるかもしれません。しかし主イエスは、今もなお この世界・ガリラヤで共に生きようと呼びかけて下さいます。十字架の死と復活は、私たちの救い・希望・生きる道なのです。私たちもこの救いを、周囲の隣人達にも呼びかけようではありませんか。

TOP