「宿営の外に出て」(へブル13章9節〜16節) ( 9.4/2022 )
「ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」(13節)

11節に、「からだは宿営の外で焼かれるのです。」とあります。あまりにも明確な言葉でびっくりするのですが、大切に思っているからだもそして今住んでいる地上の都も私たちが求めるべきものではないのです。

1.イエス様の生涯(11節、12節)

私たちには私たちを造ってくださったお方がおられます。それは主イエス様です。主イエス様は私たちを造ったものとしての権威を受けておられるお方です。コロサイ1章15節、16節には、「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ、主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」とあります。この主イエス様が罪のきよめのささげ物として、門の外で苦しみを受けられました。ですから私たちもイエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

2.宿営の外とは

宿営とは、辱めから守られる場所を指していると思われます。また、宿営とはからだが守られる場所でもあると思います。けれども、宿営の外を居場所としなさいと勧められています。それは規定によらず恵みによってです(9節)。恵みに生きるとは律法によらず主イエス様を信じる信仰によって救いに与かるということです。ですからその生活も、主イエス様について行くべきなのです。

3.来るべき都

14節「私たちは、いつまでも続く都を地上に持っているのではなく、むしろ来るべき都を求めているのです。」とあります。旅行中の宿は良い宿でも、野宿でもそう大きな問題ではないのではないでしょうか。私たちの生涯は来るべき都にあるのです。金銭の奴隷にならないように注意しましょう。私たちを守る力があるのは主イエス様だけです。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(5節)このように約束できるのは主イエス様だけです。

辱めは、主イエス様を指導者としている者である証拠です(7節)。ですから宿営の外に出ましょう。からだは焼かれても来るべき都を受けるのですから、イエス様の辱めを身に負いつつ、主イエス様を通して主を賛美しましょう。宿営の外で主イエス様にお会いしましょう(5節、6節参照)。そしてその時、神が喜んでくださるのは善を行うことと分かち合うことです。

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