「宗教生活を変えた人間理解」(マルコ2章18〜22節) ( 5.1/2011 )
「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。」(22節)

当時のキリスト教会は、ユダヤ教の会堂を使用して礼拝をしていたことが知られていますが、主イエスの昇天後、再びユダヤ教に影響されてイエスのメッセージから離れ、元の生活に帰ってしまう人々がいて、マルコはそのような信徒たちに対して注意を呼びかけるために、このテキストを書いたと思われます。その内容は、主イエスの弟子たちが「断食」というユダヤ教の伝統を引き継いでいなかった様子を描写し思い出させようとしています。その新しい生活は、婚礼の客の態度と、布切れの継ぎ方、そして新しい酒の保管方法によって説明されています。

まず、前提として断食という敬虔さの表明は一部の限られた階層の人しか行うことが出来ないという所がイエスが疑問にされた点であると思われます。イエスは、神がみこころに止め喜ばれるのは労働のあとに飲み食いする場であると教えておられるようです(マタイ11・19)。すなわち、20節を読みますと、花婿が奪い去られる日に断食しなければならない、イエスがいる間は断食しなくても良いという意味に捉えることも出来ますが、旧約聖書もユダヤ教の諸文献にもメシアを花婿でたとえる比喩は見あたりません(エレミアス)。ゆえに、この花婿なるイエスという理解は、メシアということではなく、彼がいる所、そこは喜びの場になるということを言っているのです。すなわち、宗教生活とは陰鬱な顔をして敬虔さを宣伝し、人生を演じたり型にはめることではなく、額に汗して働き、飲んだり食べたりする日常的な喜びであると教えています。すなわち形骸化した行為よりも大切なものがあるとイエスは教えています(マタイ6・17)。エレミアスは「実現した終末論」(終末が実現した、もしくはしつつある、だから今は喜びの時である)を記していますが、その真意は、宗教概念が先にあるのではなく、人間の実在が本来喜びの存在であることからイエスの存在と思想に終末的色彩が与えられたと考えるべきだと言われています。

22節の新しい酒の話は、イエスと共にある実在という新しい酒を、断食という古い革袋に入れることは出来ないという意味です。20節の「その日(単数形)」は、毎年繰り返される記念日という意味ではなく、一回限りのその日であり、イエスの不在であった日、すなわち十字架と復活の間にマルコは限定しています。現在イエスは不在ではなく先立ち導く方なのですから(マルコ16・7)。

イエスの教えは新しい酒、すなわちまだこれから発酵する酒であるから、新しいものを置くには新しい場所を準備しなければならないと言っているようです。また21節の真新しい布ぎれの譬えは生成過程にあるものが古いものを壊すという点に強調があり、終末の新しい時代が来たというメッセージではなく、イエスが人間のあり方を、固定した観念性において捉えず、常に生成途上にある生命力として捉えていたことを教えています。

いつしかユダヤ教的になってしまっているのが現在の教会ではないでしょうか?イエスの教えた新しい酒としての人間理解を受け入れ、人間の弱さと共存し、人の中にある新しい命を信じてまいりましょう。そして人を罪を定めて支配しようとする世界から救われ、共に困難に立ち向かい、与えられている生を共に受け止めましょう。

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