「つかわされた者たち」(ヨハネ20章19節〜23節) ( 11.20/2022 )
「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。』」(23節)

これは死からよみがえった主イエス様の言葉です。ですから、人間に死後にいのちが与えられる可能性があるとするならこの言葉を語られた主イエス様に耳を傾けなければなりません。第一に弟子たちは遣わされた者に過ぎなかったということ。第二に神の御前に永遠を決する罪という問題について赦しを主イエス様からみことばを与って伝える者とされたということ。第三にこれは聖霊の御業であるということが分かります。主に遣わされるなら目の前に聖霊の御業を見るのです。そして私たちが主イエス様によって罪から救われたとき、それは聖霊の御業であり、罪を赦されたのであり、死の先にある復活のいのちに与り(エゼキエル書37章)平安を受けたのだということがこの主イエス様の顕現で明らかになったのです。

自分の思いの実現を願うこと、これをかたちにしたものを偶像と言います。歴史の中で多くの人々は神様から離れ、自分の思いの実現を求めて神様に逆らい裁かれてきました。しかし、病が癒されること、歩けるようになること、目が見えるようになることなど、このような私共の願いが叶えられたという時代が主イエス様と共に現れたのです。それは、主イエス様が主であることを知るためのみわざでした(ヨハネ14章11節)。

本日はこども祝福式が行われますので、ご近所から大勢のこどもたちが礼拝に出席しています。お菓子をもらいたくて礼拝にも出席しているのだと思いますが、お菓子よりももっと素晴らしい死んだ先の命をこどもたちにプレゼントしたいと思います。この命のプレゼントとは主イエス様への信仰によるものです。目に見えない創造者である神は預言者たちを通して神、すなわち主に立ち返るようにメッセージを送ってこられましたが、人々は悪を捨てて主に立ち返ることができませんでした。その悪とは罪という主(創造主)への反逆罪です。しかし、この終わりの時代になって主はご自身の御子をこの世界に遣わして人々が乗り越えることができなかった問題を解決してくださいました。

主は正しいお方ですから、主を愛することそして隣の人を自分と同じように愛することを命じておられます。しかし、みな主を無視し、隣人よりも自分を愛し、主よりもお金をや名誉や欲望を愛してしまっています。そして、主に立ち返ろうとしても立ち返る力がないのが私共人間の実情なのです。けれども、主はご自身の御子イエス様に私共の罪のすべてを負わせ、主の十字架の血潮の代価で私共を悪魔の手から買い戻してくださいました(1ペテロ3・18、1ヨハネ4・10、ローマ3・24)。

質問1、今日悪魔の奴隷としての人生から離れ、主の所有としての人生に戻りたいと心から願う人はいませんか。

質問2、主イエス様の十字架が私の罪のための身代わりの死であった。罪の支払いは終わったのだと信じる人はいませんか。

質問3、これからは自分の力で悪魔と戦わないで、主イエス様に御頼りしおすがりしたいと願っている人はいませんか。

この3つの質問に「はい」と答える人には素晴らしい神様からのプレゼントがあります。それは

1)罪の赦し(罪を神様に告白して罪から離れるならあなたは主に赦されます。1ヨハネ1章9節)。

2)神の使者(あなたが赦されるだけではありません。主イエス様を救い主として信じ、罪を悔い改めてきよい神と共に歩み始めた人々に「あなたの罪は赦されました。あなたは救われました」と宣言する務めが与えられるのです。ヨハネ20章23節。どんな涙を流している方にも主イエス様の心を伝えるのです。)

3)悪魔に勝つ(主は高ぶる者を退けへりくだる者に恵みを下さるお方です。ですから、主に従わなければなりません。そうすれば、悪魔は逃げ去ります。ヤコブ4章6節、7節)。すなわち罪からの自由を得ます。主に対して「次は何を致しましょうか」と尋ねることができる人生に入れられるのです。正しい生き方に帰ることができるのです。

最後に死の問題を主イエス様は解決してくださいました。そして、つかの間のこの世の命ではなく復活の命を与えて、「平安があるように」と語りかけていてくださるのです。主には権力があり主によって人生は変えられるのです(1ペテロ3章22節)。その鍵は聖霊です。

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