「仰ぎ見て」(イザヤ45章22節) ( 12.5/2022 )
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」(22節)

創世記3章7節に罪を犯したとき、人間に何が起こるか記してあります。それは目が開かれる、言い換えますと覆いが除かれたということでしょう。罪を犯した人間は自分で服を作っています。
そしてその罪の性質は遺伝します(創世記5章3節「似姿」とあります)。罪ある者として生まれるならば、罪の本質は罪を犯すこと以上に神の贖いのメッセージを否むことだと言えます。神の贖いのメッセージとはどんな内容なのでしょうか。
いったいどうすれば罪を愛する生活とその悲惨から救われることができるのでしょうか。
「聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(へブル12章14節)
サタンの奴隷の縄目は切れるのでしょうか。その答えは、
ローマ人への手紙3章21節から28節の中の24節25節には「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。」です。

あるとき、一人の中学生は悔い改めなさいと勧めますと教会から離れてしまいました。それは自分の力で罪を愛する生活を否定しようとしてしまったからではないでしょうか。しかし、神の方法はローマ3章21節22節「信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」なのです。誇りのない者とされることがクリスチャンの特徴なのです。誇りの代わりに主イエス様に対する信仰を得るのです。

そして、ほふられてくださった子羊イエス様だけを賛美するのです。黙示録6章5節には「屠られた姿で子羊が立っているのを見た。」12節「彼らは大声で言った。『屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。』」とあります。
私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった神の御子が唯一の解決の道なのです(ガラテヤ2章20節)。
これはダイナマイトの力があります。ローマ1章16節
「信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」主イエス様にすがる人は神の力を体験するのです。
神は主イエス様の十字架のゆえに罪人に赦罪と免罪と義認を与えてくださるのです。ギルボードという学者は「有罪の宣告の重さも全く問題外となってしまうほどに大きな犠牲を払うということと、同時に神をしてこのような値を払わざるを得ないように神に迫った大いなる愛とは、天使たちの間に驚異を引き起こし、又救われた者たちに感謝にあふれた礼拝を生ぜしめる。」と言っています。

1コリント15章3節「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」のです。
そして、この贖いは主ご自身が
ローマ15章16節「聖霊によって聖なるものとされた」聖霊によって、
1テサロニケ4章3節「神のみこころはあなたがたが聖なるものとなることです。」御父によって、
へブル13章12節「それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために」御子によって
達成されたのです。主イエス様が死と復活によって贖罪を成し遂げ、聖霊は信じる者の生活に適用してくださっているのです。

そして実際に、
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」(イザヤ45章22節)
と主は約束してくださったのです。
そして、その約束が実現したことが繰り返し証言されています。
1テモテ4章10節「生ける神に、望みを置いているからです。」
使徒4章12節「この方以外には、だれによっても救いはありません。」
へブル5章9節「ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり」
へブル7章25節「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」と。
救いは昔から私共の側にあるのではなく、主にあります。主イエス様を仰ぎ見信じおすがりしましょう。

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