「ことばは神であった」(ヨハネ1章1節) ( 12.11/2022 )
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1節)

1.ことばとして知る 

言葉とはその人そのものの存在、そして意志を表すものです。すなわち、イエスは神であり、神ご自身を人々や被造物に伝達するお方であるというのです。神を表すことのできるお方なのだというのです。
神が神であることを止めて人間になったのではなく
修養を積んだ人間が神になったというのでもなく
神ご自身であるイエス・キリストが肉体をとって人間になられたという意味です。
荒野を苦しみ旅したイスラエルの民に許されたのは幕屋のうちに臨在してくださる主でした。
しかし今紀元2023年を迎えようとしておりますが、主イエス様がご誕生くださった時代に生かされている私共は肉体をとった主イエス様を知ったのです。いや当時から知ることができた人はわずかでした。見ても知ることのできなかった人々、弟子になっても疑った人々がいたのです。1章14節の「栄光」はイザヤやアブラハムによって考えますとそれは十字架なのです。

2.証言者たちによって知る

キリストの先在を証言した人にバプテスマのヨハネがいます。
ヨハネ1章29節から30節をお読みしましょう。
そこには、世とはわたくしども人類のことですが、私共のために私共の罪を解決してくださるお方だと証言したのですが、その時に「わたしより先におられたからです。」と証言し、その翌日、同じようにヨハネの二人の弟子のいるところで主イエス様を見かけまして「見よ、神の子羊」と証言します。すると、この著者のヨハネとアンデレは主イエス様についていき弟子になるのです。バプテスマのヨハネの目が開かれ、ヨハネの目が開かれ、アンデレの目が開かれて行ったのでしょう。

第二に預言者イザヤ(紀元前740年頃預言者になり紀元前681年に働きを終えます)がいます。ヨハネ12章41節には「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり」とあり、その前には頑なにされる人がいると記しております。ですから、だれでもメシアだとわかる姿の主イエス様を見たのではないのです。イザヤ書6章3節でイザヤが見た主イエス様はイザヤ53章に証しされていますように私たちのとがのために砕かれた主イエス様であったのです。

第三にモーセがいると主イエス様はおっしゃっています。ヨハネ5章46節。モーセはわたしについて書いたとは、創世記(主による創造の御業と人間の堕落)、出エジプト記(人間が罪から救い出された)、レビ記(主をどのように礼拝するのか)、民数記(主の民の旅路)、申命記(神の国に入るための教えと約束)を指しています。このモーセの記したものは、わたしについて書いていると言ってあるのです。

第四にアブラハムです。ヨハネ8章56節にそれを見て喜んだのです、とあります。主イエス様をアブラハムは出会っているのです。彼らの生涯の共通点は恐らく創世記22章です。16節に自分のひとり子を惜しまなかったので、と大いなる祝福が約束されます。

3.御霊によって神を知る

北森嘉蔵という学者さんが、「自動車が通ったら道に跡が付く。しかし、自動車が通っていないのに自分で道路に跡を描く人がいることが問題だ。」と言ったそうです。聖霊がなさるわざを自分で書いてしまうのです。同じ跡がついていても、大切なのは跡ではなく自動車が通った事実なのです。聖霊によって主イエス様を知りますと、頭の理解でなく、人生の歩み方が変えられるのです。
なぜこんなことを言っているのかと言いますと、主イエス様が天に昇られる前の人々は主イエス様を見て、触れていたのです。でも、救われなかった人々もいたのです。そういうことを考えますと、今、救われているのは聖霊によってなされた奇跡です。

詩篇51篇17節「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれをさげすまれません。」
ヨハネ16章14節「御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。」
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられること(ヨハネ1章14節)を聖霊によって見せていただきましょう。
見せていただいた後が大切です。ふさわしい栄光をお返ししましょう。主の聖名をほめたたえましょう。そして主にお従いできるようになるはずです。やがて、主は来られ、御前に立ちます。しかし、地上にいる間から彼を知り彼に知られ友とされ(ヨハネ15章15節)、選び出され(ヨハネ15章19節)御霊に従って歩みましょう。
(参考図書;小林和夫著 栄光の富2)

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