「イエス・キリストの受肉」(ヨハネ1章14節) ( 12.26/2022 ) |
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14節) マタイとルカの福音書はイエス様のお誕生について記しています。それは、聖霊による奇跡によったのです。そしてその聖霊はわたくし共の人生にも奇跡を起こされるのです。すなわち、聖霊は今も主イエス様を信じるとき、サタン(訴える者)の縄目を解き、救いの喜びで満たしてくださるのです。 マタイ1章18節、「二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」19節、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」けれども、主の使いが夢に現れて20節「その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」と告げます。聖霊による受胎であり、マリアはルカ1章38節に「どうぞ、おことばどおり、この身になりますように。」と答えています。 主の与える試練に対して私共はつぶやいてしまい、主の愛を疑い、主から離れ自分勝手な選択をしてしまいがちではないでしょうか。けれども、マリアの選択は違っていました。35節聖霊があなたの上に臨み31節男の子を産みますと告げられた時、38節「おことばどおり、この身になりますように。」と答えています。わたくし共に与えられる試練も、楽しいことや計算出来て解決される道もわかっているなら試練とは言いません。苦しくて、恥ずかしくて、辛いことが試練であります。けれども、聖霊はヨハネ16章14節「御霊はわたしの栄光を現されます。」です。ですから、必ず聖霊は主イエス様の力を私共の内に現わしてくださるのです。 (証し;一番大きな試練とは何でしょうか。それは、造り主である主の御前に立てるかどうかという問題ではないでしょうか。見た目は毎週日曜日礼拝と祈祷会と教会学校に通う少年でしたが、主の御前に立てる者ではありませんでした。それが辛いそんな信仰生活でした。けれども、中学一年とき、わたくしは主イエス様に祈るチャンスを頂いたのです。そして罪の悔い改めのお祈りをした後に主イエス様の救いの力を体験しました。主を恐れていたわたくしが主を愛するように変えられ、主に祈れるように変えられ社会的にもお詫びする勇気を主は与えてくださったのです。 主イエス様は死んでよみがえって今も生きておられるのです。このことを知るのは、聖霊によって御子の栄光が現わされたときです。 しかし、主は彼に従う者には十字架の道を歩ませられます(ローマ6章8節)。 けれども、わたくしは母教会の先輩が歩まれた道を歩みたいと思っております。それは主に祈る道です。黙示録3章8節「わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」すなわち、神である主と祈り交わることによって、主のことばのために生きていきたいと思っております。罪だらけの心にも主は共にいてくださり、人生を新しくし導いてくださるからです。) 聖霊は御子の誕生に働かれたと証言されていますが(マタイ1章18節)、 創造の御業の時に(創世記1章2節) いのちを創造されるときにも(創世記2章7節) そして、罪に死んでいる現代の私たちのためにも(エゼキエル37章)働いてくださるのです。 ゆえに、主イエス様は聖霊によってお産まれくださったことも確かなことなのです。 受肉の目的は、へブル2章14節から18節 共感 「血と肉…イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。」(14節)神であられつつ今も人として歩んでくださるため。イザヤ63章9節「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」 解放 「悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するため」(14節、15節)死を克服するため 兄弟 「イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりません。」(17節)最も近い親戚になるため コロサイ1章27節「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」 歴史の中に受肉された主イエス様が、キリスト者の中に霊的に受肉されます。聖霊に「はい」とお答えしましょう(ルカ1章38節)。 (参考図書;小林和夫著 栄光の富2) |
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